この私が切り込み隊長となって馬主、調教師、騎手に話を伺う『キャプテン渡辺のウィナーズサークル』。
国枝調教師が競馬の世界に入るきっかけとは? インタビュー2回目は、調教師になるまでの道のりを中心にお話を伺いました。
競馬の世界に入るきっかけ
渡辺:そもそもなんですが、国枝調教師が競馬の世界に入るきっかけって何だったのですか?
国枝:それはね、あと6年くらいして調教師生活が終わるころに、過去を振り返りながら話そうかと思ってるんだけど。
渡辺:6年ってだいぶ先じゃないですか(笑)。いまお願いします。
国枝:基本的には競馬ファンからですよ。
渡辺:それはいつごろですか?
国枝:タニノムーティエとかアローエクスプレス、ってわかる?
渡辺:名前だけは存じ上げております。
国枝:タニノムーティエが関西の3歳王者で、アローエクスプレスが朝日杯3歳ステークス勝って東の王者で「AT対決」でクラシックが盛り上がっていた。この世代の菊花賞あたりからだね、競馬を観るようになったのは。
渡辺:おいくつくらいのときですか?
国枝:中学3年生くらいだったかな。
渡辺:それはたまたま競馬中継を観てですか?
国枝:いや。友達が熱心に競馬のことを話していてね。オレは岐阜の出で、近くに笠松競馬場があるんだけど、あの当時の感覚からすると競馬は遠い世界だった。それを友達が熱心に語って引き寄せていった。
渡辺:いまでこそインターネットがありますが、昭和のその時代は、それこそ流行りごとの情報は友達同士のやりとりが密に行われ広がっていきますからね。
国枝:競馬の話題が新聞にも載るでしょ。テレビでも取り上げるし、おもしろいなと思って。中継も岐阜で関西だから杉本清で、うまいことレースを表現するし。それでだんだん火がついた感じだね。
いざトレセンへ
「勉強してなかったからね(笑)」(国枝調教師)
渡辺:それでも競馬ファンからこの業界へは、なかなかすぐには結びつかないですよね。
国枝:最初は獣医にでもなろうと思ってたの。
渡辺:そうなんですか。
国枝:高校卒業して進路を決めるときに獣医学科のある大学に入った。あのころはね、馬の世界と医学の世界とは全く別でしたからね。
渡辺:獣医の道にはそのまま行かなかったのですか?
国枝:大学に入って馬術部に入って、乗馬に馬の世話に明け暮れてた。勉強もせず、ひらすら遊んでましたよ(笑)。
渡辺:楽しそうで羨ましいです。
国枝:結局、大学は昭和53年に卒業するんだけど、いざ卒業するときになって獣医にはなれないと。勉強してなかったからね。
渡辺:医学の知識と乗馬の知識はまた別なんですね。
国枝:卒業した年に美浦にトレセンができてね。それまでは東京、中山、阪神、中京など、各競馬場で分散していたのが、栗東ができてその後、美浦ができて。
渡辺:栗東ができたのは昭和44年で、美浦ができたのは昭和53年ですね。
国枝:大学出てからも馬には携わりたかったので、馬術部で知り合った高橋裕さん(調教師)が八木沢厩舎で務められてると聞いたから、話を聞きに行ったの。そうしたら、山崎彰義さんが調教師の免許を取って、美浦のトレセンに移転して開業するので助手を探しているというわけ。それでこの世界に入ったんですよ。あの頃は競馬学校もなかったし、入り込んじゃったという感じだね。
渡辺:ジョッキーにはなろうと思わなかったのですか?
国枝:身体もそうだけど、家も普通の家庭だったから、自分の中ではジョッキーというのはあまり考えなかったね。