こんなわたくしでもいつか馬主になってダービー制覇したい!有馬記念を勝ちたい!ということで始まりました『キャプテン渡辺のウィナーズサークル』。
藤澤和雄厩舎へおじゃましてのインタビュー。今回はローテーションや調教師になったきっかけなどに迫ります。
藤澤調教師といえばローテーションが
先鋭的といいますか...(渡辺)
渡辺:藤澤調教師といえば、他の人が目指すところとは違う地点を目指すようなイメージがあります。先鋭的といいますか、たとえばダービー以外の目標を定めたり、秋は菊花賞ではなく天皇賞(秋)へ向かったり...。
藤澤:それはね、私が厩舎を開業した当時、外国産馬がどんどん日本に来ていた時代で、当時応援していただいていた大樹ファームのオーナーが外国からいい馬を日本に連れてきていて、でもその頃はまだ外国産馬はダービーに出れなかったんですよ。だから私が何かこだわってダービーに出走させていなかったのではなく、そもそも預かっていた馬がダービーに出る資格がなかったんです。
渡辺:なるほど。
藤澤:春の最大の目標はニュージーランドトロフィーとかね、そうするしかなかった。あるいはラジオたんぱ賞とかね。これが唯一の選べる目標だった。
渡辺:マル外も出走できるG1としてNHKマルカップが創設されたのも1996年でした。
藤澤:古馬になっても、当時は天皇賞ですら外国産馬は出れなかった。ダービーにしても勝ちたいとは思っていたけど、出れる資格のある馬もなかなかいなかったし、たとえばマチカネキンノホシなんか距離もあうからいいなと思っていたけど、外国産馬だから出走できないとかね。
渡辺:マチカネキンノホシといえばマチカネアカツキという馬もいましたね。
藤澤:彼はダービーで3着でしたからがんばりましたよ。
渡辺:話をローテーションに戻させていただくと、バブルガムフェローやシンボリクリスエスなども菊花賞を使わずに、天皇賞(秋)を選択されました。
藤澤:世界的に距離は2000mくらいを走れる馬が大事にされてますから。種牡馬としても。馬を成功させるならこの距離だろうということで、ヨーロッパでは早くから距離10ハロンのチャンピオンステークスを目標にする馬が多くいますし。
渡辺:当時としてはなぜ天皇賞(秋)なのかの声もありましたが、日本もいまや中距離がデファクトスタンダードになっていますし。そういう意味でも道を切り開かれたという感じがします。
藤澤:番組について言えば、天皇賞(秋)だって以前は3200mだったでしょ。野平厩舎にいたときにシンボリルドルフが菊花賞を勝ってジャパンカップを使ったときも、菊花賞からジャパンカップまで中一週しかなかった。でもそのあたりから競馬の番組も変わってきたよね。
渡辺:野平先生といえば早くから外国に目を向けていた方とお聞きしています。野平先生の影響を受けた面もありますか?
藤澤:それはありますね。私がこの世界に入ってから随分と応援していただきましたし。弟子でもあったし。野平さんは怖かった人でしたよ。厳しかった。
渡辺:野平先生は騎手時代から海外にも行かれた方でした。
藤澤:そういう挑戦もした人でしたね。野平さんがまだ騎手だった頃から、社台の吉田さんとか、メジロの北野さんとか、トウショウの藤田さんとか、みんなが野平さんをバックアップしていましたよ。
渡辺:まだ海外が遠い存在の時代ですよね。
藤澤:いまでこそ簡単に凱旋門賞に行こうとか言えるけど、当時はいろいろな人のバックアップがないと海外へ行けない時代でした。そのころ私はまだ20代でイギリスで競馬の勉強していて、パリのシャンティ競馬場で騎手時代の野平さんとすれ違い、すごい人だなぁと思いましたよ。
調教師になろうと思われたきっかけは
何だったんですか?(渡辺)
渡辺:そもそも調教師になろうと思われたきっかけは何だったんですか?
藤澤:なにもやる予定がなかったから(笑)。
渡辺:えー! さすがにそれはないのでは(笑)。
藤澤:実家が小さな牧場をしていて、馬を間近で見ていたから馬が一番ラクじゃないかと思って(笑)。教職免許ももらっていたけど、採用試験をしないといけないし、私が子どもたちに教えるのはとんでもない話で、それこそ馬だったら文句も言わないし、ごまかしが利くんじゃないかと思って、それでこの道に入ったんですよ。
渡辺:そこがスタートだったんですね。
藤澤:そう。最初は実家の近くにある青藍牧場でアルバイトがてら仕事を手伝いはじめた。牧場を経営していた田中良熊さんや東サラ商会の奥保城さんの影響もあり、外国で競馬の勉強をしたい、行くなら近代競馬発祥の地イギリスだなという思いが強まり、それで厩舎で1年、牧場で1年、外国で勉強をしてこようと思い、ニューマーケットへ行ったんです。
渡辺:若くして勉強のため海外に行こうだなんて、しかも当時はまだ昭和ですよね。すごい...。
藤澤:最初プリチャード・ゴードン厩舎で仕事を始めたんだけど、意外と調教って面白いんだよね。下手だったけど馬にも乗せてもらって。1年のつもりが、結局4年近くそこで働くことになった。
渡辺:(笑)。
藤澤:「イギリスで調教師になるか?」とゴードン調教師から言われて、「それもありだな」とか思っていたら、父親に「いい加減にしろ」と言われて。それで日本に帰ってきたんです。
渡辺:戻られてからすぐどこかの厩舎に入られたのですか?
藤澤:最初は中山にあった菊池厩舎で調教助手になって。そのあと、野平厩舎。野平先生には4年くらいお世話になり、開業したのはそれからですね。
渡辺:開業後5年でリーディングなど大成功を収めるわけですが、始める前からご自身の中では手応えはあったのでしょうか?
藤澤:予感なんてないですよ。実績も何もないですし。大変なことばかりですし。でも、大樹ファームさんや社台さんにもいろいろとお世話になったり、トレセンに来たばかりで競馬の経験もなかったときに、ベテランの岡部幸雄元騎手からもアドバイスをたくさんもらいましたよ。ちょっとうるさい親父だったけど(笑)。周りの応援があったのでずいぶんと助かりました。
渡辺:藤澤調教師というと岡部ジョッキーとのコンビがすぐ浮かびます。
藤澤:いやいや、彼の方が大先輩ですよ。たとえば岡部元騎手からビワハヤヒデの話を聞いたことがあって。ビワハヤヒデは他の厩舎だったけど、岡部元騎手の話を聞いているとまるで自分が調教しているかのような錯覚におちいるくらい勉強になりましたよ。
渡辺:へぇ。
藤澤:私は勉強してきたのが海外でしたから、岡部元騎手からは日本の競馬のこともたくさん教わりましたし。野平先生の経験豊かなアドバイスも受けて、少し自分でアレンジしながら調教して、それでたまたま上手くいった。オーナーが応援してくれていたことも、随分と助かりましたよ。
渡辺:10年連続でのリーディングなんて、そうできることではないです。
藤澤:ちょうど厩舎を始めたころは、ベテランの調教師が引退して新しい調教師に入れ替わりしている時代でもありましたから、そういう意味でも運が良かったですよ。