ゲスト 吉田 豊 騎手
02. 僕の最大のラッキーは…大久保洋吉先生に出会えたこと。ものすごく、怖かったですけどね(笑)
背中を押してくれたのは、母の一言
――吉田騎手は、競馬学校10期の卒業です。
吉田豊同期は9人いましたが、いまもジョッキーを続けているのは、幸(英幸)と僕の2人だけですね。
――渡辺薫彦調教師も、同期ですよね。
吉田豊はい。薫彦…じゃなかった、渡辺先生も同期です(笑)。
――そもそもの話になりますが、吉田騎手がジョッキーを目指したきっかけは?
吉田豊僕、茨城の出身なんですけど、近くに美浦トレセンがあるというのも、全然、知らなくて(苦笑)。競馬学校に入るまで、馬に乗るどころか、一度も、触れたことすらなかったんですよね。
――それがまた、なぜ騎手に?
吉田豊中学3年の受験シーズンを迎え、そろそろ進路を決めなきゃいけないという時期と、競馬ブームが重なっていて。そうか、こういう世界もあるんだと思ったがきっかけでしたね。
――吉田豊騎手と僕は同じ歳だから、中3というと…そうだ、オグリキャップだ!
吉田豊そうです、そうです。オグリのラストランが中3の冬です。しかもたまたま、同じ頃にハマっていた競馬漫画『風のシルフィード』で、騎手は身体が小さい方が向いているという衝撃の事実を知ってしまったんですよね(笑)。
――まさかとは思いますが、それだけの理由で?
吉田豊もうひとつ、身体を動かすのが好きというのはありましたけど……絶対に騎手になるんだとか、将来、日本ダービーを勝ちたいとか、当時の僕には、そういう夢も、覚悟もなかったですね。
――そうか…それで合格しちゃう人もいるんだ……。
吉田豊キャプテンも知っているように、僕は自分から話しかけたり、何か行動を起こすというのが苦手なタイプで。あのとき、母親が、「向いているんじゃないの!? 受けてみたら?」と言ってくれなかったら、今の僕はいなかったと思います。
乗馬未経験で競馬学校へ
――中学の部活は?
吉田豊器械体操です。今、思うとですけど、自分の体を支えるための筋肉づくりとか、バランス感覚とか、ジョッキーにとって大切なものは器械体操で身に付いた部分がすごく大きかったですね。
――とはいえ、乗馬未経験で試験に合格するのは大変ですよね。
吉田豊運もよかったんです。ちょうど、僕が競馬学校を受験した時期は、乗馬経験のない人も取ろうという感じだったので、半分くらいは、乗馬未経験者だったと思います。
――いざ、入学したものの、大変すぎて、もう、ムリ、やめようと思ったこともあるんじゃないですか。
吉田豊それは、なかったです。もう、何がなんでも騎手になるしかない! と。やっていけるかな? とか、そういうことを思う余裕がまったくなく、ただ、ただ、必死で。毎日、木馬に乗っていた感じです。
――難行苦行、艱難辛苦、千辛万苦。幾多の苦労を乗り越えた吉田豊騎手が所属したのは、今でこそ、『ウイニング競馬』で、好々爺のようにニコニコと笑っていらっしゃいますが、当時は、鬼軍曹と呼ばれた大久保洋吉厩舎でした(笑)。
吉田豊これも運が良かったんですが、その時期、先生も、弟子をひとり取ろうかと考えていたみたいで、たまたま、僕らが練習していたときに、競馬学校に来られて。競馬の神様からご縁をいただきました。
――怖くなかったですか?
吉田豊そりゃ、怖かったですよ(笑)。学校に来られたときも、トレードマーク、あの黒のサングラスですからね。全身に怪しいオーラをまとっていて、もう、見るからにただものじゃないと(笑)。
「何をしにいらしたんだろう?」「弟子を取るみたいだよ」「げっ。じゃ、誰かが行くわけだ」「誰だろう?」……同期でそんな話をしていたら、僕が行くことになったという(笑)。
――で、実際に、大久保厩舎に入ってみて。どうでした?
吉田豊予想通り、怖かったです(笑)。
調教のミス…指示された通りの時計で走れなかったりすると、すぐにものすごい雷が落ちてきて(苦笑)。先生は僕以上に無口なので、2人で同じ空間にいるときは、ただ、ただ、無言の時間が続く感じで。
――大久保先生が定年で調教師を引退なさる際、尾形充弘調教師に、「豊を頼む」とおっしゃったというのは有名な話です。
吉田豊数多くのラッキーが重なり、今の僕がある。その中でも、最大のラッキーは、大久保厩舎の所属になれたことです。それが、すべてだと言ってもいいかもしれません。
先生と過ごさせていただいた時間が、かけていただいた言葉のひとつ、ひとつが、僕にとっては大事な、大事な、宝物です。
憧れたのは、横山典弘騎手
――2017年の落馬事故で頚椎を骨折。1年以上の休養を余儀なくされました。
吉田豊あの時期は、キツかったですね。
復帰してからも、痺れが残っていて、首が思うように動かなくて……。勝てないこともそうですけど、体が自分の思った通りに動かないというのがしんどかったですね。
――今は?
吉田豊今はもう完全に治って、絶好調です(笑)。
――若い頃と比べて、何が一番変わったと思いますか。
吉田豊技術的には、乗せていただいた数の分だけ上手くなっていて当たり前だし、体力という点では、落ちているのがこれも当然なので、精神面ですね。良くも悪くも、落ち着いて乗れるようになったと思います。
――よくも悪くも?
吉田豊若い頃は、がむしゃらに、ただ、無我夢中で乗っていて。落ち着いて、周りを見て乗れるようになったのは、間違いなくプラスなんですけど、でも、競馬は、ときには、がむしゃらさが必要になる場面もあるので、それが必要とされたときに、がむしゃらに頑張れるジョッキーでいたいとは思っています。
――これまで一度も聞いたことはないんですけど、吉田騎手が憧れていた、尊敬していた騎手というのは誰かいたんですか。
吉田豊ノリさん(横山典弘)です。
メジロライアンが好きだったというのもあるんですけど、デビューする前から、ずっとノリさんに憧れていたし、今でも尊敬しています。
――ノリさんとは、結構、話をした?
吉田豊いや、それが…自分から話しかけるのはあまり得意じゃないので、ノリさんから声をかけてくださったときに、話をするくらいで。でも、僕がライアンを好きだというのも知ってくれていたので、会うと必ず、「どうだ?」と声をかけてくれます。
――弟の隼人君もJRAのジョッキーです。
吉田豊隼人とは年齢でいうと8つ。競馬学校の期でいうと10期違うんですが、兄弟揃って恵まれている、ラッキーなところが多いと思います。
チャンスをもらえることも多いし、それで勝たせていただいてもいるので、ラッキー兄弟ですね(笑)。
――ラッキーだけではないと思いますが。そういうことにしておいて(笑)。最後の質問です。ジョッキーにとって一番大切なものはなんですかと聞かれたらなんと答えますか。
吉田豊う〜〜〜〜〜ん、難しい質問ですね。
一番ですよね? う〜〜〜〜〜ん。
技術を磨くことも、トレーニングも大事ですけど…そうですね、みんなに、かわいがってもらえること…じゃないかと思います。
かわいがってもらって、多くチャンスをもらえれば、それだけうまくもなるし、結果も残せるようになりますから。
――どんなにいいバッターでも、打席に立たないと勝負にならないのと同じ?
吉田豊そうです。最初はヘボバッターだった僕を、それでも打席に立たせてくれた大久保先生のおかげで今の僕があるので。若い時は、とにかく数多くの馬に乗せてもらうことが大事だと思います。
――かわいがってもらえるコツは?
吉田豊コミュニケーション能力に欠けている僕が言うのもなんですが(苦笑)。自分に嘘をつかずに、真面目に仕事をすることです。そうすれば、見る人はきっと、見ていててくださるので、自分を信じて、コツコツ努力することですね。
(構成:工藤 晋)
よしだ・ゆたか:
1975年4月19日生まれ 茨城県出身
1994年3月にデビュー。
メジロドーベルとのコンビで5冠を制覇。
西の武豊に対し、“東のユタカ”と称された。
今年、2月26日、パンサラッサに騎乗してサウジCを制覇した。
キャプテン渡辺:1975年10月生まれ。お笑い芸人。競馬、競輪、パチンコ、パチスロは趣味の域を超えていまや生活の一部に。特技は関節技。現在テレビ東京系列で放送中の『ウイニング競馬』にレギュラー出演中。YouTubeで競馬予想更新中。