ハクチカラはダービーを勝ち、古馬になってさらに充実して、天皇賞、有馬記念を制覇して頂上に登りつめた馬でした。当時の天皇賞は勝ち抜け制で1度勝てば出られません。通常の重賞では過酷なハンデが待っています。
つまりハクチカラには日本で使えるレースがもうなかったのです。
同じダービー馬でもシリウスシンボリは勝ったばかり、先には数々の栄光の入り口が開かれていました。そこまでのシリウスは相当に強い馬でした。6戦4勝は先輩ルドルフに比べれば凡庸に映りますが、1度は失格、もう1度は直線で追い切れずハナ差の2着でした。
いずれも気性難が原因とされ、能力の高さは抜けていました。一級の素質馬が、なぜ、この時期に“長征”に旅立つのか?
『ルドルフが三冠馬になりましたでしょう。3歳暮れの有馬記念も古馬相手に勝ってくれましたから、もうだいたい日本の競馬の頂きは見えたのかな、そう思っていたようですよ。
だから今度は世界の頂きがどんな高みにあるのか、それを見届けたいと考えたのでしょうね』
シリウスの父モガミ、母の父パーソロンはともに和田共弘さんが現役時代から目を付け、メジロ牧場の北野豊吉さんと共同所有していた馬たちです。
アイルランドに生まれアイルランドとイギリスで走ったパーソロン、フランス生まれのフランス育ちだったモガミ、その血の結晶である日本のシリウスシンボリを向こうの人に見てもらいたいという気持ちもあったのでしょうか。
結局、シリウスの“長征”は14戦0-1-2-11と未勝利に終わりました。
しかし掲示板を外す事はほとんどなく堅実に走っています。たった1度の2着もG2とはいえレベルの高いフォア賞が舞台でした。
その年の凱旋門賞は歴史的なレースになりました。英愛ダービー馬シャーラスタニ、仏ダービー馬ベーリング、独ダービー馬アカテナンゴなど各国のダービー馬が揃う中、シリウスシンボリは日本ダービー馬の誇りを胸に参戦します。
激戦を制したのはダンシングブレーヴの驚異的な末脚でした。シリウスは14着に敗退します。しかし歴史にさん然と輝く名レースの舞台にシリウスシンボリが立っていたのは紛れもない事実です。
『世界の高みがどこにあるのか見届けたい』
ホースマン和田共弘さんの思いがずっと繋がって、その貴重な経験が着実に受け継がれた先に、エルコンドルパサーやナカヤマフェスタの凱旋門賞2着がある、そう考えるのは見当外れではないと思えてなりません。
※この記事は2011年5月26日に公開されました。