巷にジングルベルが響きはじめると、もう有馬記念の季節です。今年で55回目、半世紀以上の年輪を刻んだことになります。この師走の国民的催事から数々の名勝負、名馬が生まれました。
シンボリ牧場は有馬記念とは深い絆で結ばれています。史上初のグランプリ連覇を飾ったスピードシンボリ以来、シンボリルドルフ、シンボリクリスエスと連覇ホースを輩出、実に3頭で6勝という大偉業を成し遂げています。
『スピードシンボリが走っていた頃は、まだトレセンができる前で競馬場と厩舎が一緒の時代でした。だから、朝起きるとおはようって馬房をのぞいて、昼は競馬場でレースに付き添って、夕方にはまた馬房で馬の顔を見る、いつも馬と一緒、馬、馬、馬の毎日でした。
でも、それがちっとも苦じゃなくて、レースに勝ったりしようものなら、みんな集まってきて必ず宴会をしていましたね。みんな若くて、元気があって、楽しかったですよ』
スピードシンボリが走った時代は、高度成長の坂を駆け上がりつづけた日本が一息ついて、労働時間の短縮や休日の増加など、庶民の目が余暇に向きはじめた頃のことでした。レジャーやエンタテインメントが普及しはじめた新時代のヒーローとして彼は世の中から迎え入れられたのです。
『スピードシンボリは5度も有馬記念に出ているんですよ。なかなか勝てなくて悔しい思いをたくさんしました。
最初の年は菊花賞でナスノコトブキにハナだけ負けて、リベンジしようと有馬に出たらコトブキには先着したけれど、古馬を掴まえられなくて半馬身とハナだけ3着でした。
でもそこから力をつけて、明け4歳、当時は5歳と数えましたが、ポンポンと3連勝で天皇賞を勝ってくれました。
天皇賞にはナスノコトブキも出ていたんですが、かわいそうなこと(予後不良)になりまして、嬉しいには嬉しいんですが、なんだか複雑な気持ちでした』
当時の天皇賞は勝ち抜け制で4歳春に早々と勝ってしまったスピードシンボリには目標とするレースが限られてきます。
希代のホースマン・和田共弘さんの胸にある構想がふつふつと湧いてきます。
※この記事は2010年12月16日に公開されました。