『何もなくてね。電気だけは来ていたけれど裸電球ってやつね。電話もないし、ちょっと雨がふれば道はぬかるむ。お隣へ行くたって並大抵じゃありませんよ。
島根じゃあ、街中で暮らしていたから心細かったわね。まるで絶海の孤島に来ちゃったみたいなことですね。まぁ、馬や牛の世話で毎日追い回されていたから、寂しいとか思う暇もなかったですけれどね』
『馬が10頭くらい、牛も同じ数だけいました。食糧難の時代ですから、サラブレッドだけは許されないんです。
サラブレッド1頭に対して牛1頭がルールになっていました。ホルスタイン、乳牛ですね。それで乳を絞ってバターなんかつくっていたんですよ。
鶏もたくさん飼っていました。卵を産んでくれますしね。それから調教師さんがいらした時にはご馳走になってくれます。その頃は庭先取引がほとんどで、生産馬は全部売っていました。
尾形藤吉先生とか田中和一郎先生とかしょっ中いらしてね。馬を見てもらって、競馬談義に花を咲かせているうちに宴会になる。何もないから鶏を潰して料理して、おもてなしするわけです』
尾形藤吉調教師はJRA通算1670勝という不滅の記録を打ち立て、その中にはダービー8勝という空前絶後の金字塔に彩られた伝説のトレーナーとして良く知られています。
1940年の第2回桜花賞を勝ったタイレイを管理するなどシンボリ牧場とは早くから深い付き合いがあったようです。
ちなみにタイレイは未勝利の身で桜花賞に挑戦、おそらく日本のクラシック史上、唯一無二の存在でしょう。
田中和一郎調教師は、1985年に競馬の殿堂が創設された時、選ばれた10頭の顕彰馬のうち3頭を管理していたというちょっと考えられない、これまた伝説の大調教師です。
その3頭とは、名馬にして大種牡馬のクモハタ、日本初の三冠馬として歴史に名を刻むセントライト、10戦不敗でダービー馬となった“幻の馬”トキノミノル、まさに日本競馬の歴史を創った名馬ばかりです。
『尾形先生も田中先生も、職人肌というんでしょうか、名人気質と言えるのかもしれませんが、絶対に妥協しない、納得するまで何度でもいらっしゃっていました。
でも、腹にたまるようなことはおっしゃらないから気持ちがいい。和田(共弘さん)とも気性があっていたのでしょうね。そのたびに酒盛りで私は台所仕事に追い回されていましたよ』
※この記事は2011年1月13日に公開されました。