『ルドルフの現役時代は緊張の連続でした』
和田容子さんは言葉とは裏腹に楽しそうに振り返ります。
シンボリルドルフは普段はシンボリ牧場にいて、レースの10日前に野平祐二厩舎に入厩するというサイクルをずっと続けていました。1年のほとんどを和田さんファミリーと過ごしていたわけです。
『うちではお父さん(共弘さん)が一番偉くて、次がルドルフ。ほら、昔の家では家長と長男にイの一番にご飯が出て、お菜も豪華で他の家族とは差があったっていうでしょう。ルドルフが人間だったらお風呂も一番だったでしょうね』
目の中に入れても痛くないほどの可愛がりようですが、調教は共弘さん自身が厳しくつけたといいます。
『ルドルフのために良いことは何でもやりましたね。砂利を敷き詰めた調教コースを考案したり、当時はまだなかった坂路コースを造ったり、はたから見るとなんだか不思議なことばかりでしたね。でも坂路なんかは栗東から見学にきていましたね』
シンボリルドルフが三冠馬に輝いたのは1984年のことです。
馬を鍛えて“東高西低”の現状を打破しようと、関西の栗東トレセンに坂路コースが誕生したのはその翌年、シンボリ牧場の坂路コースが参考になっていたのかもしれません。
栗東の坂路効果は大きく、とくに熱心だった戸山為夫調教師が坂路で鍛えに鍛えたミホノブルボンでダービーを戴冠、“西高東低”へと潮目を変えたのは1992年のことです。もしかしたらルドルフが坂路育ちのダービー馬1号だったかも?
『砂利コースはヨーロッパの石畳がヒントだったのでしょうか。どうしたってボコボコしてるから馬はバランスを取りながら歩かなきゃいけません。
そうしている内に普通では鍛えられない筋肉が鍛えられる、そんなことを考えていたのかもしれませんね。やることは全部やったルドルフが負けるはずはない、だから勝っても喜ぶでもなく平然としていましたよ』
皐月賞を勝っても、ダービーを制しても、和田共弘さんは涼しい顔をして平然としてようです。
※この記事は2011年4月14日に公開されました。