容子さんがシンボリ牧場に嫁入りした当時は、繁殖牝馬ばかりを繋養、産駒はすべて売却する純然たるブリーダーだったのは前回でご紹介した通りです。
しかし、天才ホースマン和田共弘さん、それで血が鎮まるはずもありません。
1953年、活馬輸入規制が緩和されます。共弘さんの血が騒がないわけがありません。
『当時は飛行機に乗るたってそれは大変でした。それこそ水盃を交わして決死の覚悟で出かけた時代です。
後にはスピードシンボリのおかげで海外遠征に連れて行ってもらうようになりましたが、そう、海外は夫婦同伴が普通ですからね。
でも、最初は和田一人で出かけて行きました。
当初は繁殖牝馬中心で買った馬を船で運ぶんですけれど、旅の途中でお産しちゃったりとか、今から思うと、それはそれは大変な時代でした』
共弘さんはヨーロッパへ出かけ、1頭の牝馬とめぐりあいます。
フィーナーという美しい名前のその馬は、ハイペリオンの孫で、その父ゲインズボロー33の血統でした。彼女はシンボリ牧場にやってきて2年目にハイペリオン直仔ライジングライトとの間に1頭の牝馬をもうけます。
共弘さんが狙って配合した結果だったのでしょう。ハイペリオン23など強烈なクロスを持ったその馬はスイートインと名付けられます。
彼女はスピードシンボリの母となり、スピードシンボリはシンボリルドルフの母の父となります。
共弘さんが命懸けで連れてきたフィーナーという牝馬によってシンボリ牧場の輝かしい歴史がその幕を開けたことになります。
※この記事は2011年1月20日に公開されました。