競馬の発展を理論的に支えることになった『ジェネラルスタッドブック』の歴史をもう少し眺めてみようと思います。
序巻から2年後、第1巻として増補版が刊行されます。種牡馬174頭、基礎繁殖牝馬739頭と登録数は増えますが、いずれにしろこれらの子孫のみがサラブレッドとして認定される仕組みが完成します。
時代は進み1901年、第19巻においてサラブレッドの定義付けが試みられます。《8代あるいは9代に渡って純血馬が交配され、かつ1世紀前まで血統が証明でき、近親馬の競走成績が優れている》馬のみがサラブレッドであると。
その8年後の第21巻では定義はさらに厳格化され《先祖のすべてがジェネラルスタッドブックに収録されていなければブックに登録しない》と当時のジョッキークラブ会長ジャージー伯爵の名前にちなんだジャージー規則が制定されます。
この背景には、より速くより強い馬づくりへの各国の取り組みの違いがあったようです。競馬の母国を自認するイギリスでは伝統や歴史が重んじられ、その象徴としてジェネラルスタッドブックが持ち出されることになります。一方、新興国のアメリカやフランスではジェネラルスタッドブックにこだわらずベスト・トゥ・ベストをポリシーに馬づくりに励んできたようです。
その結果、英愛産馬は血統的な閉塞状況に陥り、米仏では多様な血が入り混じることで健康で強い馬が出るようになったとも言われています。実際、当時は既に米仏産馬がイギリスの大レースを勝つことも珍しくなくなっていました。ジャージー規制は劣勢に立たされた英愛産馬の権威とブランド価値を守るための苦肉の策として考え出されたようです。
なぜなら、新興馬産国アメリカでは南北戦争の混乱などで血統書が失われたサラブレッドも多くいたからです。ジャージー規制を適用すれば彼らを排除できます。
1850年代に活躍したアメリカ産のレキシントンもその一頭でした。彼は優秀な競走馬でマイルから実に32ハロンと幅広い距離で勝利を収め、スピードとスタミナ兼備の名馬でした。
しかも種牡馬としてはさらに優秀で数多くのクラシック馬、G1級馬を輩出しています。こうして血統書のないレキシントンの血は時代の荒波を超えて後世に伝えられ広がっていくことになります。
1928年、マルセル・ブサック氏はオーナーブリーダーとして一頭の仔馬を授かります。
仔馬の父は第2回と第3回の凱旋門賞を連覇したクサール、母系曽祖母にはアメリカで走り繁殖牝馬としてフランスに渡ったフリゼットがいました。
現在もベルモント競馬場のG1フリゼットSに名を残す名牝ですが、その母系にはレキシントンの血が流れていました。名馬トウルビヨンはサラブレッドではなかったという話になります。
日本にもサラ系と呼ばれる一群の馬がいます。母系を辿るとアラブ種に行き着く系統もいましたが、アメリカやオーストラリアから輸入された馬の子孫の中には血統書を持たないものもいました。第1回の日本ダービー馬ワカタカもそうした一頭でした。牝馬は競走能力が優れていれば繁殖として重用されますが、牡馬はそうはいきません。
産駒がすべてサラ系の烙印を押されてしまうのですから。種牡馬価値はゼロに等しいどころか最初からマイナスです。戦時中のダービー馬カイソウは種牡馬として牧場へは帰れず軍馬として徴用され、名古屋大空襲の戦火の中に姿を消したと伝えられています。強靭な末脚でファンを魅了した二冠馬ヒカルイマイの第二の馬生も幸せなものとは言えなかったようです。
さて、1949年にはフランス産馬の強さを世界にアピールする凱旋門賞が超高級フレンチレストラン『マキシム』を舞台とする晩餐レセプションを含めて華やかに開催されたのは前回お伝えした通りです。それに加えてこの年は、かの悪名高いジャージー規制が撤廃された記念すべき年ともなりました。
勝ったのはブサック氏のオーナーブリーダー馬のコロネーション。父系祖父がトウルビヨンで母父もまた同じトウルビヨンという22のウルトラ近親交配馬です。つまり、ついこの間までサラブレッドと認められなかった馬が、世界最高峰レースを制したことになります。
ブサック氏らフランス人ホースマンにとっては二重の勝利に感じられたことでしょう。
もしこの1949年の二大事件がなければ競馬の歴史は変わっていたでしょう。トウルビヨンを祖とするパーソロンも、その息子のシンボリルドルフもサラブレッドとは認められず、母父系にパーソロンがいるオルフェーブルまでもがいわゆるサラ系扱いされることになったのですから。
ブサック氏が心血を注いだ1949年の凱旋門賞はフランス競馬の国際的地位を高めるのはもちろん、勝つのはジャージー規制によっていわれのない差別を受けてきた非サラのコロネーションでなければなかったのです。氏の挑戦は見事に実を結び、競馬の世界地図は塗り替えられました。
ジャージー規制の撤廃は国家規模で生産能力の高さと生まれてきた馬の価値を争う時代に入ります。
サラブレッド生産のメッカはイギリスやアイルランドから、戦勝とその後の経済発展で世界の盟主となったアメリカへと移ることになります。フランスでもブサック氏やその馬資産を受け継いだアガ・カーン殿下などオーナーブリーダーたちの努力で個性的な馬づくりが進められてきました。
誇り高いはずのイギリス人やアイルランド人が目の色を変えてアメリカからノーザンダンサー系の血を大量に導入しました。
ノーザンダンサーの血の威力は凄まじく、競馬の世界地図の真ん中には本家アメリカに代わってアイルランドを中心としたヨーロッパ勢力が位置することになります。
非常に大雑把にいうと1949年以来、約60年にわたって繰り広げられてきたサラブレッド生産を巡る戦いはそんな光景を映し出してきました。
ところが最近はちょっと変わった風が吹き始めているようにも感じます。
フランス人オーナーブリーダーを中心に日本育ちの血統に注目が集まり始めています。今年のブリーダーカップマイルを勝ったのは母父サンデーサイレンスで日本産のフランス調教馬カラコンティでした。先日は同じく日本産でフランス調教馬のディープインパクト産駒がデビュー戦を圧勝してクラシックを有望視されています。
ディープは既にビューティーパーラーが仏1000ギニーを勝っている実績もあります。
かつて米仏合作ともいえるコロネーションが凱旋門賞を勝って馬産新時代の開幕の象徴となりました。日本馬が凱旋門賞を勝つという意味も、実はそういう新時代の夜明けを告げることにあるだろうという気がしてきました。
次回はこうした日本生産馬を巡る海外オーナーブリーダーにも注目しながら進めたいと思います。