1919年6月、パリで対ドイツ講和のヴェルサイユ条約が調印され、足かけ5年間にも渡ってヨーロッパ全土を戦火で蹂躙した第一次世界大戦にようやく終止符が打たれます。
戦時中、フランスでは競馬が中止されており、ホースマンたちはさっそく競馬の再開と復興に大わらわで取りかかります。
かつて19世紀初頭にナポレオン・ボナパルトがフランス革命による荒廃からの競馬復興のシンボルとしてグランプリと名付けたビッグレースを創設した故事に倣うように、20世紀のホースマンたちもまた戦勝を記念する国際レースを発案します。
レース名はナポレオンが建造したエトワール凱旋門にちなんで、Prix de l'Arc de Triomphe凱旋門賞と命名されます。
高額賞金と並ぶもののない名誉を提供することで、世界各国から選りすぐりのサラブレッドを呼び寄せ、彼らを打ち負かすことでフランス産馬の優秀さを世界に発信しようというのがコンセプトでした。
1920年10月の第一日曜日3日、ロンシャン競馬場2400mを舞台に第1回凱旋門賞が挙行されます。
集結したのは13頭、しかし各国から強豪馬を集めるという主催者のホースマンたちの願いとは裏腹なメンバーとなってしまったようです。
賞金調達に難儀しエプソムダービーはわずかに超えたもののパリ大賞には及ばず、世界一の高価値レースには届かなかったのです。もう一つ深刻なハードルもありました。フランスもそうでしたが、ヨーロッパ各国の馬資源が枯渇状態にあり、その少ない馬たちを輸送しようにも鉄道網が寸断されて生きものを運べる状況ではありませんでした。
何につけ事業は一朝一夕には進まないものですが、馬の成長スピードを早めるわけにはいかない競馬事業はとくにそうです。時間がかかります。手間は気の遠くなるほどです。
フランスのホースマンたちが理想の凱旋門賞を実現するに至るのは、それから30年近い歳月が必要でした。
不幸だったのは第一次大戦を遥かに上回る規模の惨禍をもたらした第二次大戦に見舞われたことでした。パリはナチスドイツによって戦火に包まれ、占領され、無数の名馬たちが持ち去られたと伝えられています。スティーヴン・スピルバーグ監督の名作『戦火の馬』を思わせるような悲惨なエピソードがあちこちで展開された時代でした。
トレヴ以前の凱旋門賞連覇牝馬として歴史に名を残すコリーダも気の毒な被害馬でした。ちょっと古いのですが、映画『史上最大の作戦』で有名なノルマンディは、フランスきっての馬産地でもあり、繁殖牝馬として牧場にいた彼女は上陸作戦の混乱の中に姿を消してしまいます。
たった一頭の遺児コアラズが44年8月のパリ解放を受けて開催された戦後最初の仏ダービーを勝ってくれたのが、せめてもの慰めと言えるでしょうか。
コリーダの馬主はオーナーブリーダーとして有名なマルセル・ブサック氏です。
彼は繊維業で財を成し、競馬事業でも仏ダービー12勝、凱旋門賞はコリーダの2勝を含めて6勝など破天荒な成功を収めます。しかし彼の事跡はそれにとどまらず、競馬の発展に偉大な貢献を果たしのも忘れられません。その最大のものが凱旋門賞の理想を実現したことでしょう。
凱旋門賞の発足から間もなく、前回でご紹介したパリミュチュエル方式(日本の馬券システムと同様)が法制化され、PMU(フランス場外馬券発売公社)が設立さて馬券売上げが飛躍的に伸び、競馬界全体の財政事情が好転していたことに重ねて、ブサック氏は競馬奨励協会(現在の統括期間フランス・ギャロの前身)の委員に就任すると、東奔西走、理想実現に邁進します。宝くじ協会などと粘り強い交渉を続け、世界最高賞金レースを現実のものにします。
各国を説得して強豪馬こぞっての参加に熱心に取り組みます。優勝賞金2500万フラン、遂にヨーロッパ最高の高みに達し、アメリカ三冠馬、イギリス二冠馬、アルゼンチンからも史上最強牝馬がロンシャンに集結します。ブサック氏の愛馬コロネーションもいます。ワクワクするような顔ぶれが揃いました。
ブサック氏は、この快挙を世界中の王侯貴族、企業人などに得心してもらい。競馬の未来をともに切り拓いていくために、パリの超高級フレンチレストラン『マキシム』を借り切って華やかな晩餐会を一夜繰り広げたそうです。ブサック氏は天にも昇る気持ちだったことでしょう。
そして、1949年10月、この年はなぜか第ニ日曜日の9日、第二十八回凱旋門賞の幕が切って落とされました。
(扉写真: Photo by Mike Norton)