——草野さんが競馬を始められたのは、どのようなきっかけからですか?
草野あれは忘れもしませんね。昭和41年のダービー直前。
当時私は、中日スポーツをとっていましてね。
見出しに大きく「今年のダービー売上は20億に達しそうだ」と出ていたんですね。
当時の大卒の初任給が良くて3万円くらいでしょ。その数字を見て、「エーーッ、20億」と驚きまして。
私は大学で社会学を勉強していたこともあり、
「なぜ多くの人が、お金を出して馬券を買うのだろう」
「これは一度見に行く必要があるな」と思ったんですね。
それで兄を連れて中山競馬場へ行ったのが、競馬へ深く入り込むきっかけですね。
——それ以前に競馬に触れる機会はございましたか?
草野新聞のニュースや週刊誌などの記事で知っているくらいでしたね。
キーストンなんていう素敵な名前の馬がいるのかとか、シンザンが、五冠馬になったとか。ニュースとして知っているくらいでした。
——初めて中山競馬場をご覧になって、そのときの印象などはいかがでしたか?
草野今とあまり構造は変わってないかと思うのですが、中山競馬場に入ってすぐパドックがありましてね。
何よりも、まず馬に惹きつけられたというか。
たしか、持ち込み馬のシェスキイだったかな。
そういう馬の名前がかすかに記憶に残っているレースで、何のレースかもわからないままパドックを見ましたら「パカッ、パカッ、パカッ」と歩く馬の一頭一頭の筋肉の出来具合とか、力強い歩調を目の当たりにしましてね。
「これは素晴らしい」
と率直に均整の取れたサラブレッドの美しさに魅せられました。
「なるほどな、多くの人達が馬を追いかけたくなるのはこういうことなんだな」
と。そこからどんどん競馬に関心が強まっていきました。
ファン第1号、タケシバオー
——競馬を始めると、思い入れのある馬との出会いもありますが、草野さんの場合は、いかがでしたか?
草野私の場合は、チャイナロックの血統ですね。
当時、野武士的な評価をされていたチャイナロック血統に気持ちが寄せられました。
そのチャイナロック産駒からタケシバオーという馬が出ましてね。タケシバオーは、とても柔軟な馬で、前に行って安心してレースを見ていられるし、強いし、2着とかありましたけれども、着順も安定していて。
——生涯成績で掲示板を外したのは、海外遠征したワシントンDCインターナショナルだけですね。
草野あれはたしか、アクシデントか何かでしたよね。
——タケシバオーは、3200mを勝ったかと思えば、1200mをレコード勝ちするという、芝ダート問わず、どんな条件でも確実に走る馬でした。
草野昭和42年に私はNHKに入り、鹿児島放送局に赴任になり、情報は、毎月購入する雑誌『優駿』くらいで、直接競馬を見ることができなくなって。
大きなレースがあるときは短波放送のアンテナを上げて聞くなんていうような状況でした。
それでもタケシバオーを応援したくてね。
タケシバオーを応援するために3日ほど休暇をもらい、NHK杯を見るために、鹿児島から東京へ出かけてきました。
タケシバオーはたしかマーチスの2着だったかな。枠連で300円か400円くらいの配当で、当時のお金で5000円で馬券を購入し、あのときは、鹿児島から東京へ応援しに来てよかった!と思いましたよ(笑)。
亭主関白と競馬
——放送局内でも競馬をされる方は多かったのですか?
草野多かったといえば、福岡放送局に転勤したときですね。
局内にもみな、あちこちに転勤しているから競馬好きが多くて。当時は小倉競馬場で馬券を売っていたので、誰かが代表して馬券を買いに行くことをしてましたね。
——プライベートでも、当時から競馬をされる機会が多かったのでしょうか?
草野私は早くに子どもができまして。家内と4人の生活をしてました。私は九州・長崎の出身で、結婚生活の何が喜びかというと
「亭主関白をする」
「おもいっきりやりたい放題やる」
それが結婚生活の醍醐味と思っておりまして。給料もろくに稼いでもいないのに、ムチャクチャな亭主関白をしていました。当時は「家庭サービス」という言葉がようやく出てきた時代でね。
「家庭サービスなんかやってられるかよ」
という感じおりましたら、家内に「家庭サービスをぜんぜんしていない」とぼやかれてまして。家内がグズグズ言っているから、「じゃぁ車に乗れ」と行き先も告げずに家内と子どもと家内の母親を乗せて車を走らせました。
——ちなみに、行き先はどちらだったのでしょう?
草野もちろん、小倉競馬場(笑)。
いまでこそ小倉競馬場はキレイな施設になりましたが、その当時は日差しを遮るような木もなく、ベンチがあるだけで、真夏の暑い日差しがガンガンに照りつけているような状況でしてね。
そこに家内と家内の母親と子どもを、「じゃぁこの辺で」と座らせて、私は1日中馬券を買いに走りまわってました。
——(笑)。
草野あとから家内には、「あれは何だったんだろう」と言われまして(笑)。(第2回へつづく)