ホースマン・サロン ホースマンが語る競馬への想い

【第4回】馬主事始(前編)

ゲスト 中山馬主協会最高顧問・和泉信一さん 【第4回】馬主事始(前編)

凱旋門賞から文字通り“凱旋帰国”のナカヤマフェスタ、和泉信一オーナー、そして“チームすみれの花”の皆さん、お疲れさまでした。偉業をありがとうございました。 さて、インタビュー4回目の今回からいよいよ本番スタート、オーナー歴60年という和泉さんに、半世紀以上の悲喜こもごもを語っていただきます。

――和泉さんはずいぶん長く馬主をなさっていらっしゃいました。そもそものきっかけはどういうことだったんでしょうか。

『そうねぇ、おそらく今ね、生きておられる方のなかでは私より古い人ってちょっといないなぁ、って思いますね。

昭和20(1945)年に戦争が終わって、私と弟が兵隊から帰ってきました。東京の上野にちょっと土地があって、松坂屋のそばのアメ横の出口辺りですね。

ところが、それはもう辺り一面が焼け野原で、仕方がないからそこに掘っ立て小屋を建てて弟二人で商売を始めたんです。
弟が商売がうまくてね、それで儲かって彼が大井競馬で馬を走らせるようになったんです』

――弟さんが先に馬主になられた?

『そう。そもそもね、商売の関係で軽井沢によく出かけていたの。軽井沢には貸し馬屋がたくさんあって、たぶん高崎競馬かなにかの上がり馬だと思うんだが、それに見よう見まねで乗って、誰に教わるわけでもなく自然にね。

それで軽井沢には旧陸軍の飛行場があって、今はプリンスホテルなんか建っちゃってるけれど、その頃は一面が飛行場。直線で1000mくらいあって、そこをかっ飛ばすの。爽快なんてものじゃないですよ』

――馬主より乗馬をたしなむほうが早かったんですね。

『そう。そうこうしているうちに弟が大井で馬主になった。というのも戦後ね、競馬が再開されたのは大井が早かったんですね。

それで弟が馬主になって佐野厩舎というところに預けていて、その佐野の親戚に中野吉太郎という中央の調教師がいて、紹介されて私も馬主になった。

10馬房くらいの小ちっちゃな厩舎だったけれど、主戦騎手が石毛(善衛)でね。そんなところが私の馬主事始かな』

※この記事は、2010年10月7日に公開されました。


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