――ナカヤマといえば和泉さん、和泉さんといえばナカヤマ、いまでは定着しているというか親しまれているのですが、たしか最初は93年にデビューしたファイブナカヤマでしたね。和泉さんの長い馬主歴を思えば、案外と最近なんですね。
『あれはね、僕一人の馬じゃなくて、中山馬主協会の役員仲間が5人でね共同で持った馬なの。だから、5人で持ったからファイブナカヤマだったんだ。ニューマーケットだとかドーヴィルだとか、ヨーロッパにずいぶんと肩入れしたんけれど、前にもいったように、それだとどうしても血の偏りみたいなものが避けられない。で、アメリカに通ったりしていたんです。
デヴィルズバックって全然マイナーな種牡馬の仔だったけれど、ブルードメアにニジンスキーが入っていて面白そうだなって買ったんです』
――デヴィルズバックといえばタイキシャトルが大成功するわけですが、彼が生まれたのはファイブナカヤマのデビューの翌年です。しかも母の父がカーリアン、ニジンスキーの直仔です。血統構成が似通っています。和泉さんの先見の明に感じ入る思いです。
『まぁ、もともと身の丈しか競馬はやらない。そうすると何かチャレンジしないと面白くない。
別に先見の明なんてものじゃなくてファイブの手柄ですね。あの頃、マル外は出られるレースは限られているし、出れば出たで強いのが揃っている。みんな出られるレースは一緒なんだからね。
ファイブの同期にはヒシアマゾンなんて、牝馬なんだけれどもとんでもなく強い馬がいて、その他にもマル外は粒が揃っていて、出るところ出るところで当たっちゃう。もうイヤになるほどね。そこで勝ち抜いていくのは、よほど大変なんだけれども、ファイブは良く走ってくれましたね』
――3歳から7歳まで走って、35戦5勝、2着も5回ありました。重賞は勝てませんでしたが、1億円以上稼いでいるんですね。
『そう、立派なもんだよ。おかげさまで鹿児島のほうで種牡馬になれましてね、中央で走った産駒はわずかなもので、たしか15頭くらいだったかな。勝ち鞍も4勝くらいだから威張れたもんじゃないが、大したものだと思いますね。
その中でいちばん走ったのがイチライファイトという馬で3勝はこの馬が上げたんだ。
ファイブと同じで吉永正人厩舎に所属していましたね。吉永はこの系統の扱いが分かっていたのかもしれません』
――ファイブの翌年も豊作でしたね。
『そう、最初は5人で持ったんだが、誰も次も持とうとはいわないから、“ナカヤマ”の冠名が消えてしまうのは寂しいから、私が“ナカヤマ”を引き継ぐことにしたんだ。ゴーゴーナカヤマとラッキーナカヤマだったかな。
ラッキーはファイブにつづいて吉永のところに預けたんだけれど、なかなか勝てなくてね。未勝利でも勝てなくて、仕方なく500万条件で走って、たしか25戦目かな、新潟の特別戦で初勝利を上げてくれんだね。重賞とか、フェスタのようにG1を勝つのも嬉しいもんだが、こういうのも格別ですね』
――ゴーゴーナカヤマは走りましたね。“ナカヤマ”の冠名で初の重賞ウィナーになりました。
『そうだったね。デビューから3連勝で京成杯3歳ステークス(現在の京王杯2歳ステークス)をレコード勝ちしてくれましてね。ファイブ同様に外国産馬だったからダービーとかの出走権はなかったんだが、無事だったら相当に走ったと思っていますよ。
京成杯のあと骨折してしまってね、あればなければと残念でなりませんでした』
※この記事は、2010年11月11日に公開されました。