山本直也さん

そろそろ場内デビューをとなった時、やらかしてデビューが半年くらい延びました(笑)。

ゲストをお迎えしてお届けする「藤原菜々花のWe♡horses」。今回のゲストは、競馬実況歴30年以上の大先輩、現在フリーアナウンサーとしてご活躍されている山本直也さんにお越しいただきました。前編では、アナウンサーを目指すきっかけから、競馬実況までの道のりを伺いました。

とにかくアナウンサーになりたかった

藤原今回は元ラジオNIKKEIアナウンサーで、現在はフリーアナウンサーとしてご活躍の山本直也さんです。尊敬する大先輩なので、きょうのインタビューをスゴく楽しみにしていました。実況歴は何年になるんでしょう?

山本30年ぐらいですかね。89年に大阪支社に移って、デビューが93年か94年だったと思います。ほんと、デビューまで時間がかかりましてね…。今と同じように、私のデビューしたての頃も、ラジオと場内と実況を分けていたんですよ。先輩は場内で、私は最初の頃ラジオの実況をしていました。そろそろ場内デビューをとなった時に…。

藤原何があったんですか…?

山本ゴールするまで、勝ち馬の名前を一度も言わないという…。大接戦で馬を追いきれなくて、最後に飛んできた馬が勝ったんですよ。で、「大接戦でゴールイン」と言ったのですが、さすがにダメでした。

藤原それで、どのぐらいデビューが延びたんですか?

山本半年ぐらいですかね。

藤原そんなに!そもそも、直也さんは競馬に詳しくてアナウンサーになったわけではないですよね?

山本そうですね。とにかくアナウンサーになりたくて、運よく入れた会社がたまたま競馬中継をしているラジオ局だったということです。

藤原アナウンサーを目指したきっかけは?

山本高校生の頃は、しゃべるのが大好きで放送部に入っていました。NHK杯全国高校放送コンテスト(Nコン)に出たこともあるんですよ。

藤原Nコン、私も出ていました!放送界の甲子園って言われていますよね。私は神奈川だったんですが、直也さんは?

山本兵庫県です。県大会までは行ったのですが、そこで落ちてしまいました。

藤原兵庫勢って強いですもんね。

山本そうだったんですね!私は朗読部門だったんです。

藤原朗読ですか?

山本国語の授業で朗読をするのが好きだったんですよ。感情を込めて読んでみたり、いろんなパターンで読んだりすると、これがウケたんです。噛んだら交代というルールだったんですが、私は噛まなかったんです。それで延々と私のワンマンショーになるわけです(笑)。それが楽しかったんです。

藤原凄いです(笑)。普通、授業での朗読って、当てられたくない人が多かった気がしますけど。それも直也さんがアナウンサーになる一つの原点だったんですね。

山本そうかもしれませんね。あっ、部活では真面目な取り組みもしていましたよ。学校の近くにある障害者施設に取材に行って番組を作ったりしました。それも、Nコンに出しましたね。

アングラ放送、海賊放送研究会

藤原大学はいかがでしたか?

山本海賊放送研究会というサークルに入っていました。

藤原海賊?

山本正規の放送ではなくて、アングラな放送するということです。まあ、実際のところミニFMなんです。下宿にスタジオと称したサークルのたまり場があって、そこに機材を持ち寄って、下宿のみんなに向かって放送する番組を作っていました。そこの先輩たちが、アナウンサーの試験にホイホイ合格するので、じゃあ自分もと。簡単に受かっているように見えたんです。魅力的な仕事だなって思いました。

藤原いざ、ラジオNIKKEIで仕事を始めて、競馬実況デビューまでの道のりは?

山本私の場合は、ものすごく下積みが長かったんです。まずは塗り絵(実況の時に使用する勝負服や馬名を記入する資料)の書き方から教わったんです。当時は今みたいに服色表が送られてくるわけではなかったので、レーシングプログラムに書いてある勝負服の服色を見るんです。

藤原えっ、全部ですか?

山本そうだったんです。まず、競馬新聞で「この馬は何月何日のレースに出走している」というのを確認します。それから溜めておいたレープロの中から、その日のものを探し出して、服色を確認して塗り始めるんです。

藤原メチャクチャ時間がかかるじゃないですか!今は服色の表が送られてきて、それを見ながらの作業です。恵まれた環境だと感謝しないといけませんね。塗り絵を覚えたら、次は何を?

山本先輩たちの実況を聞きながらの文字起こしですね。文字にすることで、「坂を駆け上がる」とか「内を突いて」とか自分なりの用語集ができたら、それを頭に入れていきました。

⾃分を褒めてあげたい

藤原で、いよいよ実況の練習ですね。

山本そうです。でも最初なんて1頭しか追えなかったんです。「先頭はミホノブルボン、2番手が…う~ん」という感じでした(笑)。そのうち、3番手まで言えるようになるんですが、4番手の馬が言えなくて「う~ん」となるんです(笑)。そうやって追える馬を増やしていったんですが、直線に入る馬をさばけるようになるまで、ずいぶん時間がかかりました。

藤原直也さんでもですか!?

山本とにかくデキが悪かったんです。当時はまだ昭和を引きずっている時代でしたから、先輩たちが体育会系だったんです。指導は厳しいし、自分もうまくできないしで、もう競馬場に行くのが苦痛で…。若かったですね。

藤原厳しい指導ですか?

山本はい。例えば競馬場帰りの電車で、先輩に「今日の1レースを勝った馬の名前は?」と言われるんです。

藤原抜き打ちテストですか!

山本そうなんです。 でも、その当時は仕事をするので精⼀杯な時期で、覚えているわけないんです…。今⽇も仕事が終わったと思ったところで聞かれるので、「え〜なんでしたっけ?」と答えると、先輩に「ダメだろ!」と怒られるんです。この⾔い⽅がきつかったんですよ(苦笑)。そういうのが続いたので、頭にいれるようになって、答えられるようなると、今度は「その⾺のお⽗さんは?」と聞かれるんです。そんなとこまで覚えていなかったんですよ(苦笑)。当時は「なんていやらしい質問をするんだ」って思っていましたが、先輩が鍛えてくださってたんですね。だいぶスパルタでしたけど(笑)。

藤原え〜!そのスパルタ指導の間、モチベーションはどう維持していたんですか?

山本ここまで叩かれて、簡単に諦めたくなかったんです。なんとかカタチにしたいなとか、⾃分が実況している声を残したいと思っていました。まあ、私が⼀⼈前にならないと、他の先輩たちも大変だったんです。当時の⼤阪⽀社は3⼈の先輩がいて、私を⼊れて 4⼈でした。若⼿の私を育てないと、いつまでも3⼈で実況を回していくことになりますからね。でも、よく続いたなと、⾃分を褒めてあげたいです(笑)。

G1の実況は別格

藤原初めて担当したG1はなんでしょう?

山本1997年のフェブラリーSですね。この年からG1に昇格して、勝ったのはシンコウウインディでした。もう実況はボロボロでした。緊張してガチガチだったし、気持ちばかり焦って空回りしてしまって。言おうとしたことではないことが口から出てしまったりしました。

藤原G1って別格で、意識しちゃうものなんですね。

山本あのファンファーレを聞いた瞬間に、グンっと緊張感が高まるんです。それは今も同じです。

藤原一番緊張したG1はなんですか?

山本ゼンノロブロイが勝った2004年の有馬記念ですね。この日は10Rしかなかったので、私の担当は半分。前半5Rまででした。それが終わったら、あとは有馬記念を楽しもうと思っていました。でも、後半を担当していた先輩が途中で具合が悪くなってしまったんです。

藤原それで、急遽やることになったんですか?

山本はい。なぜだか「山本君、やってくれる?」って言われて、もうビックリしました。8Rから交代して、最終の10Rまでの実況をしました。そのうちの9Rが有馬記念だったんです。この時のゼンノロブロイは天皇賞・秋、ジャパンCと勝って、この有馬記念はG1、3連勝がかかっていました。

藤原G1の担当になると、みなさん1週間前から入念に準備しますよね。G1中のG1で急な代打は厳しいですね。

山本まあ、出走するのはG1でよく見るお馴染みの馬達でした。だから、それぞれの馬のキャラクターは頭に入っていました。とはいえ、有馬記念ですからね。それはもの凄く緊張しました。とにかく、間違わずに最後までしっかりと実況したいというのが一番でしたね。

構成:スポーツ報知 志賀浩子
Photograher:山口比佐夫
広報担当:IDEO

藤原 菜々花ラジオNIKKEIのアナウンサー。担当番組:「中央競馬実況中継」「ななかもしか発見伝!」「こだわり羽生結弦セットリスト」等

※この記事は 2025年9月9日 に公開されました。

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