トップなうちに辞めたいという、自分なりのプライドがありました。

競馬の世界を目指したきっかけ
藤原森さんは南関東の船橋競馬の所属騎手として活躍なさり、昨年の11月29日の騎乗を最後に引退。地方通算2万8333戦4448勝を挙げ、重賞は2017年東京ダービー(ヒガシウィルウィン)をはじめ71勝。南関東のリーディングに9度、地方競馬全国リーディングに6度輝きました。そして、今年3月に調教師試験に合格なさいました。きょうはビシッとスーツですね。
森これまで週5日は勝負服という生活をしていましたから、まだスーツには慣れないですね。でも、これから着る機会が増えていくわけですし、慣れないといけませんよね。
藤原とてもお似合いです!まずは、競馬の世界を目指したきっかけはございますか?
森そうですね。僕は千葉県の市川出身なので、中山競馬場にすごく縁があって。初めて行った競馬場も中山競馬場でした。94年のスプリンターズSの時ですね。目の前でサクラバクシンオーが連覇を達成したのを見て、そのスピードに圧倒されました。馬ってなんてかっこいいんだって。乗っていた小島太騎手の姿の華やかさにも衝撃を受けました。「コレだ!」って思いましたね。
藤原自分の進む道は騎手になることだと。
森はい。それで、まずは乗馬クラブに通いました。騎手課程の試験はJRAも受けたんですが、視力が悪くてダメでしたね。いまはコンタクトレンズをして受験してもいいようですが、僕の頃はできなかったんです。地方競馬の方は僕の視力でもギリギリOKでした。いまの時代だったらもしかしたら中央競馬で乗ってたかもしれないですね(笑)。

地方競馬の騎手課程は本当に楽しかったですね
藤原地方競馬の騎手課程は厳しいものでしたか?
森ずっと修学旅行に行っているようで、本当に楽しかったですね。
藤原えっ!2度と戻りたくないと言う方が多いですけど…。
森僕は夢に向かって一歩一歩進んでいるんだって、充実感でいっぱいでした。
藤原でも、食べ盛りの時期だし、甘いものを食べたくなったりしませんでしたか?
森それは、平気でしたね。なんでしょう…ランナーズハイみたいな?前へ進んで行く自分に酔っていたのかもしれないですけど(笑)。
藤原学校では楽しみってありましたか?例えばテレビとかは?
森各学年に1台ですね。娯楽室に置いてあって、1日に1時間と決まっていました。
藤原それじゃ、チャンネル争いとかなかったんですか?
森その記憶はないですね(笑)。
藤原同じテレビをみて、同じご飯を食べて、同じトレーニングをして…とても絆が深まりそうです。同期の方たちとは連絡を取っているんですか?
森えぇ、同期のグループLINEがありますよ。今年の4月には、同期の倉富隆一郎が調教師になって初勝利を挙げたので、「おめでとう!」って送ったり。いまだに、同期会をしますしね。
藤原戸崎圭太騎手も同期なんですよね。超黄金世代です!
森彼はJRAに移籍したので、サークルは変わりましたけどね。そのおかげで、同じ年に僕が地方の全国リーディングで、圭太がJRAのリーディングを獲るなんてこともできたわけですけど。
藤原同期2人で独占ですね。森さんの引退セレモニーにも、戸崎騎手が駆けつけていました。
森ありがたいですね。彼は学校時代も、今と変わらず真面目でしたよ。教官にもかわいがられていました。愛されキャラですよね。
藤原ちょっと天然だったり?「ベリーベリーホース!」みたいな。
森あぁ~(笑)。今年のドバイシーマクラシックをダノンデサイルで勝ったあとのコメントですよね。あれこそ、まさに圭太ですよ。迷言はともかく、ドバイで勝つなんてすごいですよね。彼は大井競馬でデビューして、JRAに行ってと、うらやましいと思うこともあります。でも、僕はデビューした競馬場が廃止になって、南関東競馬に拾ってもらったんです。だから、JRAに移籍しようと考えたことはありませんでした。

デビューした競馬場、移籍した競馬場が廃止に
藤原森さんが1998年にデビューした足利競馬場は2003年3月に開催を中止し、移籍した宇都宮競馬場も2005年に廃止になりました。
森その頃は、まだ20代前半で子供だったので、ずっと暮らしてきた場所がなくなるなんて想像もしていませんでした。厩務員さんなど大人たちは「競馬場を潰したら、働いている人たちへの賠償金を何千万と払わなくちゃならない。だから、なくならない」と言っていたんです。選挙の時も、候補者が「みなさんの競馬場はなくしません!」なんて演説をしていましたし。今、思えば、競馬場の組織票がほしかっただけなんですよね。だから、大丈夫だと思い込んでいました。
藤原実際に廃止となった時は?
森実感がわきませんでしたね。でも、最後のレースを終えて、馬たちが次々と馬運車に乗せられていきました。厩舎に1頭も馬がいない。ガラ~ンとしている光景に衝撃を受けました。今でも夢に見ることがあります。だから、これ以上、競馬場をなくしちゃいけないと思っています。
藤原当時の状況を目の前でご覧になっていた方の言葉は重いです。
森競馬場がなくなれば、そこで働いていた人たちも、生活の糧を失ってしまいますからね。
藤原宇都宮競馬の廃止にともなって、2005年に南関東の船橋競馬に移籍なさいました。
森最初は乗鞍はないし、勝てませんでしたね。そのうち、大井で活躍していた三坂盛夫先生が、たくさん乗せてくれるようになりました。大井で勝つと目立つんですよね。それで、乗鞍が増えていきました。
藤原そこから大活躍して、最終的に4448勝を挙げました。4000勝騎手は南関東で5人目、42歳での達成は佐々木竹見さんの32歳に次ぐ、最年少記録2位です。
森自分が4000勝以上もするなんてね。まあ、ジョッキーとして、そこそこうまくいったかなと思っています(笑)。勝ち鞍で言えば、佐々木竹見さん(地方7151勝)、的場文男さん(地方7424勝)、石崎隆之さん(地方6269勝)とか、もっと勝った方たちがいます。ホント、すごいですよね。尊敬しています。

騎手になるには?
藤原森さんもレジェンドの1人ですよ。引退する時、「もったいない」と言われませんでしたか。その時点で、全国リーディングトップだったわけですし。
森引退は2年ほど前から、ぼんやりとですが考えていました。デビューから20年以上たって、2万8000戦以上をしてきましたから疲労が蓄積したんでしょうね。足首の調子が良くなくて。それに、レース勘が鈍ってきたようにも感じていました。それでも、もう少し頑張ればいいのにと言っていただいたのは、ありがたかったですね。でも、トップなうちに辞めたいという、自分なりのプライドがありました。
藤原森さんの、こだわりだったんですね。
森まあ、惜しまれるうちに、辞めたほうがいいですよ(笑)。全国リーディングのまま辞めた騎手も、そういないでしょうし、それはそれで面白かったんじゃないでしょうか。
藤原トップを張るというのは、その存在は責任もともないますよね。
森騎手は華やかで目立つ存在です。その自覚を持って当たり前のことを、当たり前にこなすことは重要だと思ってきました。例えば、近年はスマホのジョッキールームへの持ち込みなどネガティブな問題もありました。別に僕だって聖人君子なわけじゃありません。でも、花形である騎手がルールを守らないと、ファンの理解は得られないと思います。
藤原これからの競馬界を考えると大事なことですね。今後、森さんに憧れて騎手になりたいという子供たちにアドバイスはありますか?
森まずは情熱を持って取り組んでほしいですね。情熱があれば、馬のことを知りたくて勉強しますから。そして、信念を持つこと。「絶対に騎手になる」と強い気持ちを持ってほしいです。そうそう、僕らの期の担当教官は岩田康誠さんの期も育てた方なんですよ。学校生の頃、「俺は岩田を育てたんだ」とうれしそうに自慢していました。
藤原教え子の活躍はうれしいですもんね。
森そうですよね。それを聞いて、「自分も岩田さんのような騎手になる!」と励みにしていました。卒業後、圭太や僕などのレースを見て、その教官は「お前たちは自慢の生徒だ」と言ってくださいました。だから、今の生徒さんたちが僕らの期の話を聞いて、頑張ろうと思ってくれたら、うれしいですね。

構成:スポーツ報知 志賀浩子
Photograher:橋本健
広報担当:IDEO

藤原 菜々花ラジオNIKKEIのアナウンサー。担当番組:「中央競馬実況中継」「ななかもしか発見伝!」「こだわり羽生結弦セットリスト」等