02. 近代競馬の歩みを明らかにすべく燃え続ける研究意欲
日本の競馬の歩みを、きちんと跡づけたい
梅田先生は学生時代にそういった馬との出会いがあり、それから競馬史の方に行かれたというのはどういった経緯だったのでしょうか。
立川そうですね。自分でも本の「はじめ」にも書いたんですけど、学生時代から競馬史の研究をやっていたら今は「大家」だったと思います(笑)。それでも一応、それまでは研究としてはまともなことをやっていたわけですよ。40歳を過ぎた頃に「あれ?」と思ったんです。競馬のことを本格的に調べたものが数少なく、未開拓といってよいし、それならば実証的にやろうと思って、最初はちょこっとやればいいなと思っていたんですが、いざいろんな所に通って資料を調べていくとムチャクチャあるのですよ。それも一人では到底こなせないような資料群。研究分野が進展していると、この部分やってあの部分やってとそれぞれ調べていくことができるんですけど、競馬史みたいな分野だと全部やらないといけないので、相当手間暇がかかるうえに、かつ内容が浅くなってしまうんです。誰も手をつけていないぶん、他人の批判にさらされないので。それで40歳を過ぎたらやろうかなとやり始めたら、面白くなってきたのです。例えば国会図書館などに行って、明治時代の新聞が各紙あるわけです。20紙くらいあって、ほとんどが残されています。当時の新聞にはかなり詳しく競馬のことが報じられていて、その当時の競馬のことを調べて追っていくことができます。それでどう考えたかというと、全部見ようと思ったんです。
梅田国会図書館に行って全部新聞を読んで、まずは記録から取り始めたわけですか。
立川それで“馬なり”ですから、何があるか分からないんです。どんな記事に出会うかというのは、前の研究があれば「この時にはこういうのがあるな」って分かるんですけど、いつも「こんなのがあるんだ!」と。そういう意味では面白かったですね。
梅田新聞から記録を取って文献も読んで、学者さんの世界ってそういうものなのかもしれませんが、結構気が遠くなる作業ですよね。
立川他に外交文書、公文書とか関係者の日記なども膨大にあるんですよ。そういうものと突き合わせながらやって、基本的なものとしては新聞を見ていきました。それで鹿鳴館時代と呼ばれている明治10年代から20年代前半は、新聞で追っていけますし、横浜では英字新聞が刊行されていたのでそれでも追っていけるんですよ。そういうので追っていって、この時代は外交文書があって条約改正が関わっていて、そこにも競馬に関連することが含まれています。今はそれらもデジタルアーカイブ、コレクションとして公開されていてネットでアクセスできます。私はわざわざ公文書館に行っていましたが、見ていくとなかなか面白いんですよね。あと外交史料館にも競馬関係の資料が残されています。そちらにもせっせと通って、コピーを取って「よし!」と思っていたら、今は簡単にネットで見られるんですよ。皆さんも勉強なさるには、ものすごくいい環境になりました(笑)。そういう作業を進めるなかで、「日本競馬史」という日本中央競馬会が編纂(さん)した1巻から7巻の本があるのですが、この本が相当な労作であることを実感させられました。でも、やっぱり資料的な制約があって“抜け”があるんですよ。それでそこを埋めていこうと思ったことが、30年くらい前に自分の本「競馬の社会史1 文明開化に馬券は舞う-日本競馬の誕生」にまとめる出発点になったと思います。だからこの本には愛着があるんですけど、今考えると相当粗いです。競馬史として研究が蓄積されてきたわけではなくて、ある意味浅いですから。浅いとどうしてもダメなんですよ。いろんな人が、ある意味競馬の予想と一緒で、ああでもない、こうでもない、と言わないとその分野は進展しないんです。ぜひ研究する人が増えてほしいなと思うのですけど、今の時代は理系もそうなんですけど、とりわけ人文系の教員の定員は大幅に削減されるなど状況は厳しいですし、そういう研究では就職ができないでしょうから難しいですね(苦笑)。
梅田誰か学生さんで志す人がいたらいいのでしょうけど…。
立川学生でやるのは難しいですね。まともな研究をやって立派な業績を挙げても就職できない時代ですから。それでも真面目に言うと、競馬の研究なんかやっても何の役にも立たないかもしれませんが、やっておく必要はあるんじゃないかと思います。
梅田そうですね。文化としてこれだけ積み重なっているわけですから。
立川今のような中央競馬の成り立ちやあり方には歴史的根拠があるわけです。問題点、矛盾点もですし、約70年前に日本中央競馬会になった時の経緯も私としては相当いかがわしいと思っています。それから戦争に負けた時に前身の日本競馬会はGHQから解散を指令されたのですが、その1948(昭和23)年に国営競馬になった経緯も相当いかがわしいです。そうすると何でこういうことになったのかなと考えていくと、戦前を調べることになります。そして戦前の構造が健全だったかというと、絶対にそんなことはないです。そうすると、こういう経緯があったから、今のような形になってますよ。中央競馬と地方競馬が分かれている歴史的経緯とか、中央と地方で騎手や調教師の免許がどうして違うのか、などということにはその起源、根拠があるわけですよ。それを明らかにしたからと言って農林水産省が問題点を変えてくれるとは思っていませんが、それとは別に馬の蹄跡だとか競馬に関わった人々の情熱などはもちろん、明らかにしておきたいとは思いますけどね。
梅田実際に競馬史と一口に言っても、競馬史のなかにもいろいろなことがありますものね。
立川そうなんです。いろいろな人が、例えば血統など得意な分野で研究してくださるといいな、と思っています。
梅田先生の場合は競馬の歴史だったり、法律的な問題だったり、いろんな分野について取り組むことになるわけですからね。
立川戦後すぐに全国各地で行われた競馬は「闇競馬」という言われ方をして、非合法な競馬と考えられてきたんですけど、そうじゃないよと書いたのがこの本(競馬の社会史 別巻1『地方競馬の戦後史 始まりは闇・富山を中心に』)です。戦争が終わって、戦前の競馬法などの制約、たとえば戦前は10倍という配当に上限がかかっていましたので、そういうのを撤廃して自由に競馬をやりたいという要望が出てきた時、それを受けて各都道府県がどうしたかと言うと条例を定めてその下で“合法的に闇競馬”をやらせるんです。
梅田へぇー。「合法の闇競馬」って面白い言葉ですよね。いいのか悪いのかもよく分からない感じです。
立川その後1946(昭和21)年11月20日に地方競馬法を施行して、それを撤廃させるんですけど、そういう経緯を解きほぐしておいた方が、今の競馬法のことを理解できると思います。さらに言ってしまえば、現行の競馬法は手をつけなくてはいけない法律だと思います。あれは1948(昭和23年)に制定された時に1年後に見直すとしているんですよ。それがずっと抜本的に見直されずにきているし、それと我々に関係のある(馬券の)控除率の問題もあるわけです。あれも政治立法で太平洋戦争が始まった時に、戦争が終わったら引き下げるからとりあえずそれまでの18%から25%+馬券税7%=32.5%にさせてね、という時限立法だったんです。そうすると今、平然と25%でやっているなかでJRAがなんで時々プレミアムだと言って控除率を20%に勝手に下げられるのか。そういう法律だったからですよ。そしてそもそも控除率にしても高過ぎます。日本は最初1923(大正12)年競馬法施行時10%でしたから。それで戦争とかをやるたびに戦費調達だとか言って上げていったんですよ。そういうことも含めて今の課題はたくさんあるので、そうそう競馬を気楽に謳歌できる状況ではないよというのは30年間、ずっと私が持っていた思いなので、それを明らかにできればと思っています。日本の競馬の歩みを、きちんと跡づけたいというだけです。

そもそも日本で競馬をやるということは、とてもすごいことなんです
梅田知らないことばかりで勉強になります。そして先生は1988年10月に筑波大学で日本生活史の講義を行ったことがきっかけで、日本競馬史の勉強を始められたんですか。
立川普通は業績があってこういうことを教えてくれという話になるのですが、7、8年くらい非常勤でいて、変な言い方ですがその生活史で“真面目な講義”をやるのがバカバカしくなって、競馬のことやろうと思ったんですよ。自分のなかで前から興味があったのがあるのでしょうけど、ふと思ったんです。それでその時の学生には迷惑だったかもしれませんが、日本競馬史とかをちょろちょろっと読んで、講義で話しました。
梅田その時は講義で、どんな話をされたのですか?
立川横浜の根岸に日本で最初の競馬場ができるじゃないですか。そもそも日本で競馬をやるということは、とてもすごいことなんです。革命的なことなんですよ。なぜなら、そのまま自然に競馬なんかが誕生するはずがないんですよ。梅田さんは音楽がお好きで分かってくださると思いますけど、三味線や尺八の延長線上にバイオリンやトランペットが誕生しますか?同じようにそれまでの日本の馬文化の延長線上に、今のような近代競馬なんてありえないんですよ。それで、どうして競馬が誕生したかと考えていくと、いろんなことがそこから出てくるとか、そういう話を含めてしました。当時はポニーのような在来種で、側対歩(そくたいほ:同じ側の前後の肢が、それぞれ1組ずつ地面に着いたり離れたりする歩き方)ですから。それに極端に言うと日本には競走という概念がありませんでした。さらに言えば時間も「不定時法」ですから、季節によって時間の長さ、単位が違うんですよ。今のようにきっちり1分という単位じゃないんですよ。そして走って競走して回るということも難しい。そうすると日本で競馬が誕生するまでには、それ相当の時間と手続きが必要でした。簡単に言うと、馬文化を根元的に変えていかないといけないんです。そういった日本の馬文化を変える出来事が、明治の時に起こったという話からしました。この時は競馬が非常に政治的存在でした。幕末、欧米列強と不平等条約を結ばされて、関税自主権がなく関税を日本が自ら決められませんでした。関税というのは近代国家にとってはその存立にかかわる重要なものです。もうひとつは領事裁判権の欠如で、いわゆる治外法権でした。明治政府にとってはその条約改正が最大の悲願であり、その実現に向けて取り組んだのが、西洋諸国に対して、日本が近代国家であることを示そうということでした。鹿鳴館外交です。そのことをアピールするものとして競馬も選ばれました。「競馬ができるくらいに日本は近代国家なんですよ」と。あわせて女性が舞踏をすることも積極的に奨励されました。つまり競馬も舞踏も鹿鳴館外交の一環でした。その当時の井上馨や伊藤博文などの政府の首脳と外国の外交団と横浜に住む西洋人の中心の人物、そして皇族が、1880(明治13)年ニッポン・レース・クラブを結成する形をとって横浜根岸の新たな競馬の時代がは始まりました。このようにこの時代の競馬は明らかに政治的なんです。そして根岸だけじゃなくて、国家的な社交場としてつくられたのが上野の不忍池競馬場です。
梅田不忍池でも競馬をやっていたというのは知られていますよね。
立川皆さんが思っている以上に国家的事業で大々的に力を入れていました。明治天皇も度々行幸しましたが、行幸は、国としてそういった競馬にお墨付きを与えるという意味合いがありました。しかし1892(明治25)年にたった8年くらいで廃止になり、それと同じ理由で鹿鳴館時代が終わりを告げます。西欧化の行き過ぎだということで、終わってしましまいました。そして日清戦争や日露戦争が、日本の競馬にとって重要な意味をもちました。大陸戦を遂行するには大量の食料と弾薬が必要で、野砲、山砲などを戦場で機動力のある形で展開しないといけなかったわけです。そのため数十万頭単位の馬が必要でした。トラックなど何もない時代で、唯一の輸送手段が馬だったのですが、その日本の馬が役に立たなかったんです。
梅田どうして日本の馬がダメだったのですか?
立川小さくて人間の言うことを聞かなくて、どう猛だったんですよ。かつての日本では調教をして馬を人間の意に従わせようというのではなくて、馬と共に生きよう、「人様が嫌がるようなことを馬にしない」という馬文化だったので、それでは軍事には役に立たない。それは深刻なことで、国家事業として日本の馬を軍事的に役立つように改良しなければいけないということで、当時日本には150万頭の馬がいたのですが、洋種の種牡馬を配合して、その血を全部入れ替えることに取り組みました。すごいことですよ。30年計画で実現させました。当時、軍事の高度化に不可欠な「馬匹改良」のポイントとして強調されたのが、「馬を愛する心を育む、愛馬心の涵養」でした。日本の馬が劣悪なのは、日本人に馬を愛する心がないのが最大の原因であると考えられていました。
梅田そうなんですか!?いまいち、ピンときませんが…。
立川それは「西洋的な愛」が欠如しているという意味でした。日本人は江戸時代、人に対してもそうなんですが、現在考えられているような愛というものを知りませんでした。簡単にいえば、馬を愛して、人間様の役に立つために言うことを聞かせる、ということです。これまでのように馬の思うがままにやっていた馬文化ではダメだというので、「愛馬心の涵養」ということが、「馬匹改良」のポイントだと帝国議会でも大真面目に答弁され、そしてそれに一番役に立つのが競馬だと強調されました。法律では賭博は禁止で馬券も禁止なんですが、黙許、黙認しようじゃないかと決めるんです、事実上の合法化です。当時の桂太郎内閣が、事実上内閣としてその黙許を保障しました。これは軍事的に喫緊の課題である「馬匹改良」に必要だと。宮内省、陸軍省、農商務省が積極的に支援しました。馬券を買うとなると一生懸命に馬を見るから、馬を好きになるじゃないか。フランスを見てみろ、どこの国も競馬の盛んな国は愛馬心が盛んだよ、と馬券を黙許するんです。つまり軍事の高度化を図るには、馬券を発売して愛馬心を涵養して競馬を盛んにすることが必要だと、論理は飛躍していますけど、そうやって認めていくわけです。そして、1906(明治39)年から馬券発売が黙許されました。

馬券黙許時代がJRAの起源なのです
梅田そして今の中央競馬につながっていた歴史があったわけですか。
立川馬券黙許時代に認められた時の競馬場が、今のJRAの競馬場の起源です。除く中京競馬場ですけど。中京は戦後、名古屋経済界が名古屋に競馬場がないというのはいけないと猛烈な運動をやって、今の中京競馬場を実現させました。
梅田そういうことだったのですね。
立川日露戦後の名古屋も、馬券発売を黙許される競馬場を作りたくてしようがなかったんですが、なかなか認められなくて、それが戦後に悲願がなったわけです。それを除けば、福島競馬場も静岡の藤枝というところから開催権を移譲させる形で福島に移動してきています。藤枝競馬場は大井川の河畔にあったんですけどね。そこがかわいそうに馬券を発売できる前に認可されたんですけど、第1回開催を実施する前、1908(明治41)年10月に馬券を禁止されてしまいました。それでもずっと開催していたんですけど、10年くらい経ったらやっていけないということになって、一方で福島はずっと競馬場が欲しいと考えていたんです。馬券黙許時代に福島も競馬場を作ろうと頑張ったんですが、名古屋と一緒で内部が対立してできなかったんです。当時は県内が一致していなければ認められなかったんです。複数の動きがあったら認めないと。だけど福島は藤枝から開催権を移譲されて、今の福島競馬場につながったんです。そういったことも含めて、この馬券黙許時代がJRAの起源なのです。
梅田そういった成り立ちがあったなかで、JRAと地方競馬はどうして今のような分かれる形になったのですか。
立川根拠なんてないんです。この時に馬政局という馬の政策を取り持つ部局が、馬券を売っていいよと認可した所が今のJRAです。認可を受けなかった所で、競馬をやりたくていろいろ頑張っていったところが、今の地方競馬になっていくんです。馬券を売ってはいけないとかいろいろ制約がありました。昭和に入るまでは比較的、お互いが交流できたのですが、馬券が復活すると不正が起こるという話が出てくるんです。
梅田どういう不正なんでしょうか?
立川要するに馬の名前をごまかしたりして、どちらでも走らせたりしていたことがあったりしたのでしょう。それで当時は公認競馬会(競馬法に基づいて馬券を発売している競馬会)に出たら免許剥奪すると、逆もそうで締めつけてきた。それが今の分かれた原因のところです。馬政局は内閣総理大臣直属の機関、全部決裁は総理大臣でした。競馬場の認可は。それまでは国立公文書館に資料が残されているのですが、ところが馬券黙許時代が終わり、1910(明治43)年馬政局が陸軍省の所管になると残らなくなるんですよ。
梅田そうなんですか?
立川その後1923(大正12)年競馬法で馬券を合法化するときに、陸軍ではちょっと…というので農商務省、今の農林水産省に馬政局が移ることになって、今も監督官庁が農林水産省というのはそういうことです。

今が一番意欲に満ちています
梅田まだまだこの本の続きがあって、調べたいことはたくさんあると思います。先生としては、さらに研究意欲は出てきていますか?
立川私は決して勤勉な人間じゃなくて、研究者としても適当にやってきた気がします。今が一番勤勉です(笑)。そういう意味で今が一番意欲に満ちています。65歳を過ぎて定年になっても、残された時間が少ないとはあまり思っていなかったので、意欲はあります。ただ、梅田さんはお若いでしょうけど、実際に年齢を重ねるとめちゃくちゃ体力は落ちます。記憶力も劣ってきていて、1でやってきたことが5から10かかります。いくら意欲があっても限度があって、なかなか進みません(苦笑)。死ぬまでにやっておかないといけないと思うんですけど、どこまでできるか分からないです。
梅田意欲の源ってなんですか?
立川好きだからです。自分では思わなかったんですけど、50歳を過ぎてから調べ物することが面白くなってきました。
梅田それはなぜでしょうか?
立川競馬というテーマに出会ったからじゃないでしょうかね。自分が何をやりたいのかということは、簡単には分からないと思います。ずっと付き合ってみて、相性が合うか分かるところがあると思います。大学生の時から決めたテーマを勉強していくじゃないですか。だいたい20、30年たって、少し形になってきたかなと思うところが出てくるんですけど、1つのテーマの糸口をつかむのに10年くらいかかると思います。1つできたかなと思うまでに30年で、ちょうど私のこの競馬史の研究が30年を過ぎたところなので、他の通例の研究者の年齢からいえば50歳くらいに相当します。だけど体力が続かなくなってくるので、そういう意味ではまだ研究し始めて30年なので、気力はあるんですけど、なかなか体がついてこないので、そこは難しいですね。
梅田前編でお話しされていたように、馬券を当ててステーキを食べて元気をつけて頑張ってほしいと思いますよ(笑)。ちなみに競馬をされる時は、何か決まって食べていらっしゃるご飯とかあるのですか?
立川前はビールばっかり飲んでいたんですけど、正直、今は競馬場という空間があまり好ましくなくなっていると感じます。昔は川崎競馬場がとっても好きだったんですけど、今は行きたくないです。誤解を恐れずに言うなら「人は来なくてよい」という競馬場になってしまっていますから。狭くなって、座る席は全部有料だとか、いろいろと思うところはあります。最後に観に行ったのは2020年の全日本2歳優駿です。自分の馬が出る時以外、行かなくなりました。中央競馬だとジャパンCだけです。それも単純な理由で、馬事文化賞の受賞者は招待されるからです。だから本当に怠惰になりました。前はよく出かけていってひたすらビールを飲んでいたんですけどね(笑)。
梅田今、ご自身の馬とおっしゃいましたけど、馬主さんとか、一口馬主をされていらっしゃるんですか?
立川2001年にサンデーサイレンスを観に行ったことがあるんですよ。その時に社台の人と知り合いになりまして、それがきっかけで地方の馬主資格を取って社台の地方競馬オーナーズのオーナーになりました。それ以来、20数年になります。
梅田現在もご自身の愛馬はいらっしゃるんですか?
立川1頭います。勤めていた時は給料があったので3頭とか持っていたんですけど、今も出せなくはないんですが、1頭だけでいいと思っています。2歳のグレートロッタリーという馬です。大井のデビュー戦は5頭立てで必ず賞金がもらえたんですが、4着で絶望的な着差でした…。
梅田9月にデビューしたばかりですね。
立川1、2着馬がゴールしてからも、3着以下はまだ来ない、まだ来ないと…。残りの3頭が弱かったんですよ。この馬はスタートを出ても前に進んでいかなくて、追い込んできたとは言うんですが、はるか勝ち馬は向こうでした…。
梅田これは大井で現地観戦されたのですか。
立川いや、今度行こうとは思っていますけどね。ところでエミーズスマイルって馬はご存じですか?妻が一口持っていて2007年のJRAの桜花賞に出走したんですが、その孫の馬を申し込んだらノド鳴りで全然走らなくって…。
梅田競馬史の研究をしながら、改めて馬との付き合いはすごいですね。
立川最初はすごく面白かったですよ。最初に持った馬がいい血統の馬で、それで走るかなと思ったら、1走だけ走って故障して引退しました。こんな高い馬で1走だけって…。そういうことはずっとあるんですけど、次の馬が新馬戦で走って2着繰り上がりながら1着になったんですよ。だけど次に半年後に走ったら故障して引退です。1口馬主もそうなんでしょうけど、最初はそれでもすごく面白かったです。2008年の東京優駿2歳牝馬に共有馬が出走して、2番人気で7着したこともありました。フレンチマリーという馬です。表彰式のためにネクタイを締めて行ったんですけど、よく健闘してくれて楽しめましたよ。

生きている限りはやりたいなと思っています
梅田そしてその翌年度の馬事文化賞を受賞されたのですね。これはいきなりご連絡が来るものなのですか?
立川全然予想していなくて、確か1月6日に連絡が来たんです。「大学本部が立川さんのことを探してるよ」と言われて、何の話かなと思ったら、「おめでとうございます」と言われました。僕は表彰式に行くのをやめようかと思っていたんですが、行ってよかったです。普通はパートナーを連れて行くみたいですけど、その時は競馬の仲間を連れて行ったので、非常識でした。あそこはみんなパートナーを連れてくるのだと後で知りました。妻には今でも申し訳ないと思っています(苦笑)。あとで噂で聞いたのは、出版社が勝手に全5巻だと銘打ったのですが、選考委員会では、全5巻が刊行された後で賞を出しても遅くはないという意見もあったそうです。全5巻などとそんなこと一言も言っていないし、これは独立した本と思っていたのですが、それは置くとして、もらえるとは思っていなかったです。だからいきなり賞金100万円もらえたのは嬉しかったですが、予想外でしたね。全然意識していませんでした。
梅田この馬券黙許時代のシリーズを完成させるまでは、あと何年もかかりそうですよね。
立川このシリーズは全6部の予定ですが、2部は2校待ち、3部は初校待ちで、入稿はしていませんが4部も完成しています。5部はほとんど書いてあって、6部も私が生きている間に出版されるかは分かりませんが、原稿としては完成できると思います。その後もずっと続けていきたいなという気はあります。
梅田先生のその先の夢、やりたいことはどんなことでしょうか。
立川勉強なんて、たかが勉強ですけど、好きなんです。これだけ調べることが好きなんだって50歳を過ぎてから分かりました。毎日、国会図書館とかいろいろ行くのが苦痛じゃないんですよ。なんで受験勉強している時に気がつかなかったんだよって(笑)。まあ、それは半分以上冗談なんですけど、それくらい毎日行って、毎日調べて、全然お金はもらえなくても、面白いというか性に合っていることは初めてのものでしたから。戦争でも起こらない限り、今後も年金で暮らして研究はできると思うので、生きている限りはやりたいなと思っています。どこまで行けるか分からないですけど、本当は戦後までやりたいんですよ。この年になって、まだ明治ですからね(苦笑)。
梅田本当にすごいことですよね
立川さっき言ったように20歳の頃からやっていればと思いますね。私の指導教官は日本近代史のなかで著名な方だったんですけど、「競馬が好きなら、競馬の研究したらどうかね」と一言でも大学院の頃に言ってくれれば…。全然、競馬のことを研究しようとは気がつかなかったです。
梅田でも日本史の先生だからこそ、競馬の歴史をひもといてみようとつながったわけですよね。バックグラウンドも分かっていらっしゃるからこそで。
立川それはそうですね。これが理系だったら全く違ったと思います。今回の『競馬の社会史Ⅱ 馬券黙許時代 第一部 ~愛馬心の涵養、馬匹改良の捷径は競馬にあり~』は、網羅的に書いて辞典みたいに大部になってもいい、後に調べる人たちが辞典みたいにして使えるように、こういうふうに註には新聞の記事の見出しもつけてあります。そうすると国会図書館に行かなくても、この見出しと日にちと新聞名を伝えて手続をすれば、もちろん有料ですが、コピーが送ってもらえます。そういう意図でも書いています。ただ、この作業が時間かかるので、たぶんこの馬券黙許時代のシリーズで終わりだと思っています。もっと前から競馬史を勉強しておけばよかったなと思っています。
梅田立川先生の、馬と競馬愛を沢山聞かせていただきました。これからも執筆活動、先生が生み出される世界を楽しみにしております。今日は本当にありがとうございました。

(構成:スポーツ報知 坂本達洋、Photograher:山口比佐夫)

梅田 陽子
セントフォース所属。学習院女子大在学中より、日本テレビ「きょうの出来事」お天気キャスターとしてデビュー。2006年よりグリーンチャンネルキャスターとして、中央、地方競馬に携わっている。情報、スポーツ番組MC・リポーター、イベントMCとして活動中。馬とお酒と音楽(ピアノとチェンバロとパイプオルガンの演奏をします)が好き。

吉田 俊介
1974年北海道出身。(有)サンデーレーシングの代表で、ノーザンファームの副代表。中山馬主協会理事(広報インタビュー担当)。