01. 競馬ファンだからこそ気がつけた競馬史を調べる道
京都での学生時代に競馬と運命の出会い
梅田今回は2009年度JRA賞の馬事文化賞を「競馬の社会史1 文明開化に馬券は舞う-日本競馬の誕生」で受賞された立川健治先生にお話をうかがわせていただきたいと思います。実は私が先生にインタビューしたいと思ったきっかけは、浅野靖典さん(スポーツライター、競馬キャスター)から先生のことを教えていただいたからなんです。
立川浅野さんはグリーンチャンネルの「競馬ワンダラー」の番組でお見えになったことがあって、その浅野さんのご紹介と聞いてびっくりしましたけど、実は浅野さんが撮影にいらっしゃった時に体の具合がすごく悪かったんです。その時はどうしようかと思ったんですけど、せっかく東京からいらっしゃってくださるし、それに日刊競馬のトラックマンだった飯田正美さん紹介だと聞いて、私も飯田さんの知り合いなのでこれは会わなくてはと思って取材を受けたことがありました。そしてその4日後、入院しました(苦笑)。
梅田そんなことがあったのですか?それはたまたま先生の体調が悪かったのでしょうか。
立川2015年のことですね。私がちょうど富山大学を定年になる時だったのですが、それで病院に行ったら「今日は帰しません。即刻、入院です」と言われてしまいまして。そのテレビを見た人からも「何であんなにやつれているの…?」と言われました。だからあの時に何をしゃべったのか、あまり覚えていないんですよ(苦笑)。
梅田そんなエピソードがあったのですね。先生は競馬の歴史を詳しく研究されてきたそうで、私も今回お会いできてうれしいです。まず先生と競馬とのつながりは、どういったところから始まったのか教えてくださいませんか。
立川競馬とのつながりと言いますと、今では“法律違反”ではなくなっているんですけど、学生時代ずっとぶらぶらしていまして、その時に競馬に出会いました。その頃は堂々と「どこが違反なんだ!」と言い張ってましたけどね(笑)。私が京大に在学していた時は国立大学の学費は月1000円でした。年間で1万2000円です。入学金が4000円でした。それでそれに甘えたわけじゃないですけど、学生を裏表8年間やりました。授業料を6年分滞納していたんですけど、最後に7万2000円を払って無事に卒業しました。
梅田そうなるとその頃に通われていたのは京都競馬場ですか?
立川初めて行った競馬場というのは京都競馬場ですね。実家の横浜にもよく帰っていたので、東京競馬場にも行くようになりましたが、本拠地は川崎競馬場という意識がありました。

富山大学で教鞭を取りながら競馬史への研究に目覚める
梅田なるほど。先生のご出身はどちらなのですか。
立川佐賀県です。それでいろいろあって佐賀、長崎、大阪、東京、それで川崎、鎌倉、横浜と移りました。
梅田先生のことをすごく面白いなと思うのは、富山大学で競馬史を教えていらっしゃったのですよね。
立川いえいえ、教えていません。ずっと定年まで日本史を教えていました。
梅田もともと競馬の歴史について研究される前は日本史の先生をされていたのですね。
立川要するに競馬史は“余技”なんですけど“本業”です。富山大学で仕事をし始めた2年目くらいから競馬史を研究することを始めました。誰にも制約されないし、勝手にやっていいし、授業さえしっかりやっていればいい。それで始めました。
梅田富山大学で競馬史って、富山には競馬がありませんよね。実は以前はあったのですか?
立川競馬は全国全部にありました。除く沖縄ですけど。
梅田そうなんですね!富山のどのあたりにあったのですか?
立川1937(昭和12)年、高岡に作られ、1944(昭和19)年まで開催していましたが、それが1946(昭和21)年再開されました。現在富山大学の隣にある五福公園は、戦前陸軍歩兵第35連隊の練兵場だったのですが、その練兵場にコースを設けて1924(大正13)年から1929(昭和4)年まで開催されていたこともあり、1946(昭和21)年そこに競馬場を設置しようという計画も立てられたんですけど、1948(昭和23)年立ち消えになりました。戦前は、おわら風の盆で知られる八尾(やつお)、そして海水浴場が近くにある浜黒崎という所にもありました。1946年11月20日施行の地方競馬法で地方競馬場は県内に2つまでと決まり、北海道だけ6つですが、富山の場合は、競輪に押されて廃止になってしまったんです。簡単な話で競馬場はかなりの土地の広さが必要ですが、競輪場は自転車が走るわけですから競馬場よりはるかに小さくて済み、運営するコストを考えたら競輪の方が収益があがるわけです。それに控除率が競馬は32.5%だったんです。競輪は25%だったので、お客さんも競輪の方に流れるんです。そういうこともあって富山は1950(昭和25)年で廃止になりました。
梅田富山県にも地方競馬があったなんて知りませんでした。
立川そもそも私と競馬との関わりは、昔の佐賀競馬場が家の近くにあったということに始まります。母の弟さんが、17、18歳くらいで高校の先輩とつきあって子供ができて結婚したんですが落ち着かず、1951(昭和26)年300万円という莫大なお金を私の祖父の家から持ち出して、京都の祇園で遊んでたという逸話があった人で、馬券も大好きで、大きく賭けていたそうです。私は本当にいいおじさんと思っていて好きでした。そのおじさんとの競馬の出会いが佐賀競馬場でした。後に佐賀競馬場は今の場所に移転しましたが、先にもいいましたが、昔は家の近くにあったんで私も小さい頃よく連れていかれたそうです。佐賀駅から近くて、あのままあそこにあったら面白い競馬場になっていたと思うんですけど、いかんせん場所が狭かったですからね。
梅田今は鳥栖駅が近いような場所ですよね。先生はその後、大阪の長居競馬場の近くに住むことになったそうですが、子供の頃からいつも競馬場の近くにお住まいに…。
立川それはたまたまで、親の勝手な都合で引っ越しただけです。そこは3つ目の小学校でした。当時は競馬場のコースが残されていて小学校4年で長居に転校したら、リレーの選手の選抜は、その長居競馬場の元コースで行われ、私は足が速かったので、そこで勝ってリレーの選手に選ばれました。砂が深くて、“重馬場”でとってもつらかったですけど(笑)。それが思い出になっていますけど、今行くと全く違いますよね。サッカー場もできて、すごいですからね。
梅田それで6年生の時に東京に転校されたのですか。
立川世田谷の奥沢小学校という所だったんですが、みんなでかくて足が速くてびっくりしました。僕は1年生から5年生までリレーの選手だったんですけど、東京では「並以下」になりました。こんなに違うんだと思って、文化的なショックも受けて面白かったです。みんないいところのお坊ちゃん、お嬢さんで、中学も私立に進学するということで。

タケホープ、ハイセイコーの時代にエクセルラナーで“推し活”
梅田そして大学時代は京都で過ごされて、競馬との縁が本格的に始まったのですね。
立川それほど熱心だったかな。でも、当時は競馬を楽しむ環境が現場に行くしかありませんし、そういう意味では今のように環境が良くなかったので、今よりは熱心だったかもしれませんね。競馬場に通うという意味では。
梅田先生が行っていらっしゃった当時は、どんな世代の馬が走っていらっしゃったのでしょうか?
立川ハイセイコーやタケホープですね。ハイセイコーは目の前で見てびっくりしました。オーラがありました。「うわ、すげえ!」と思って。あとはキタノカチドキ、カブラヤオー、テスコガビー、トウショウボーイ、テンポイント、グリーングラスです。これらの馬たちのレースは競馬場で見ました。
梅田当時の馬って、分かりやすい馬名が多かったように思いますよね。
立川そうですね。私は寺山修司の作品を読んでいて、ハイセイコーを取り上げた詩やエッセイがたくさんあるんですけど、個人的にはその当時はそれほど好きではなかったんですよ。でも後から考えたら、寺山修司の物語とともに、「ハイセイコーって、すごい馬だな」と思うようになりました。その時は単に「まあまあ、ハイセイコーか」ってくらいだったんですけど。それで初めて競馬に出会って実際に走って見ていた馬って、ものすごく贔屓になるじゃないですか。それでエクセルラナーっていうダービー5着の馬が好きになって、追っかけをやっていました。
梅田それこそ“推し活”ですね、今で言う。
立川残念ながら菊花賞は出られなかったんですけど、東京で走る時はわざわざ上京して観に行きました。それが今一番懐かしい馬ですね。それで、たぶんこんな馬の名前はご存じないかもしれませんが、ヒサエノオモカゲという馬がこの前走っていたんですよ。エクセルラナーのお母さんがヒサエという馬なので、それで「ヒサエノオモカゲ」って聞いた時に「えっ!?」とびっくりしまして、この人もエクセルラナーとかに思い入れのある馬主さんなんだなと思いました。ヒサエは、ヒサエノオモカゲの5代母ですからね。それこそエクセルラナーがダービーに出たのは、かなり昔で1974年ですから。ちなみにエクセルラナーの勝った馬券をしばらくお守りとして持っていました。唯一、重賞を勝ったステイヤーズS(1974年)の当たり馬券です。
梅田その馬券は今も大事にお持ちなのでしょうか?
立川当時は学生ですからお金に困って銀座の場外で、換金しちゃいました(苦笑)。
梅田私はその頃はまだ生まれていませんね。ちょうど私の父と先生が同じくらいの年齢なので、たぶん見ていた馬とか競馬場の環境とかは同じ感じなんだろうな、と思いながら実はお話を聞いています。
立川「昔はこうだった」とよく言われる話で女性のトイレが最近きれいになったとか言われますが、私が競馬を始めた頃から女性のトイレはきれいになっていて、電車の中でも競馬新聞とかを見ても平気な時代になっていましたから、どうして「昭和の時代はこうだった」とか言うんだろうなと(笑)。だから私としては、第1次競馬ブームで比較的競馬のイメージが明るくなってきた時代に出会ったと思います。
梅田今から50年くらい前になりますでしょうか。
立川私が競馬を始めたのが74年ですから、約50年前ですか。それより前に、馬券を買おうと意識的に競馬を予想したのが、73年秋の菊花賞です。タケホープとハイセイコーの名勝負で、実況が「タケホープ!ハイセイコー!タケホープ!ハイセイコー!」って最後はタケホープが鼻差で勝った。その時に予想して他の人に馬券を買ってくれって頼んだんですけど、そいつが“飲んで”ました(笑)。
2人アハハハハハハ!
梅田そうなんですね、買ってもらってなかったんですね(笑)。
立川それはまあ今では笑い話なんですけど、その翌年の3月頃から毎週馬券を買うようになりました。
梅田まだ「1―1」とか買い目ごとに窓口に並ぶ時代ですか?
立川中央競馬はそうじゃなかったですけど、川崎はそうでしたね。あれはすごいですよね。面白いのが、「バカヤロー!こんな本命のところに並んでるんじゃねえよ!」って言う人がいて、お前も並んでるじゃないかよってやり取りがあったり(笑)。買い足すには、その窓口に並ばなくちゃいけなくて、諦めちゃう場合もあるんですけど、それはすごく覚えています。本当にパンチでの穴あき馬券で、中山競馬場もそうでした。だから思えば、そういう時代から今日までアッという間でしたね。

忘れられない川崎の名牝ロジータ
梅田その当時の馬券はお写真で拝見したことがあります。タケホープやハイセイコーを間近で見ていらっしゃったのはすごいですね。
立川だから懐かしい馬はいろいろいるんですけど、あとはロジータですね。デビュー戦以外のレースは、すべて競馬場で見ました。
梅田ロジータの魅力って、先生からご覧になってどのようなところだったのですか?
立川パドックでの歩き方が特徴的で目について、レースに行くと一頭力が違うという圧倒的な勝ち方で、それに福島(幸三郎)さんという調教師も渋かったんですけど、騎手もすごくひいきにしていた野崎(武司)騎手だったということもありました。当時はオールカマーが地方馬にとってジャパンCの予選で、当然勝つと思っていたら5着に負けちゃったんですよ。中山で観戦していて、あぜんとしました。「ロジータが…」って。それでも地方馬最上位で89年のジャパンCに出走できたので、勝つと信じて東京競馬場に行きましたが、最下位の15着でした。ロジータの子供を見ていると芝で走った馬もいるんですけど、やっぱり基本的には砂がよかったんだろうと思います。今みたいな時代だったら、馬の質にもよると思うんですけど、ロジータがダート界を席巻していたのではないかと思います。当時はスイフトセイダイという強い馬がいたんですけど、それを子供扱いした3歳の時の東京大賞典が一番強かったですね。当時は4歳で、今で言う3歳の時ですけど。あとは90年に8馬身差で勝った川崎記念も強かったですが、あれはメンバーが弱すぎた。それはすごく覚えていますね。
梅田先生の“推し活”は、そんな感じでロジータなどへ続いていったんですね。
立川不思議なもので、その後は贔屓の馬というのはあまり出てこないですね。だからここ三十数年間は淡々と見ています。それでもステイゴールドは走っている時から好きだったので、ステイゴールド系のオルフェーヴル、ゴールドシップなどの産駒の応援は現在も続けています。
梅田血統で馬を見ていくということですか。
立川そういうものが好きですよね。それくらいかなあ。
梅田やっぱり最初のインパクトが強かったのでしょうね。タケホープ、ロジータ、みんな個性派じゃないですか。
立川タケホープの頃は競馬の「け」の字も知らなかったので、その時のスターに出会って惹かれただけですね。もっと前から競馬をやっている人は、もっと違った思い出があるのでしょうけど。
梅田川崎競馬場に初めて行った時のことも覚えていらっしゃいますか。
立川それがバスの車体に電光掲示板を付けてオッズを表示していたんですよ。馬券は買い目ごとに窓口で分かれていて、懐かしいですね。今となっては面影は全くないですけど。あのまま残していたらもっと文化的遺産になっていたと思います。だから面白かったですよ。コーチ屋もいましたし…。
梅田大井競馬場には1986年に初めて行かれたそうですね。
立川お互い仕事があって結婚後も別居していたのですが、子供ができたので、非常勤講師で定職のなかった私が主夫をやろうと思ったんです。そこで1986年の3月に関西の家を引き払いました。その時に帝王賞が中央の馬にも開放されて行ってみたいなと思って、子供を保育園に預けてお父さんは大井競馬場へ。そのお陰で枠連の時代にトムカウントで万馬券を取ったんです(笑)。買ったのは200円でしたが、その日はステーキを買いって帰りました。あとロジータが走った89年のジャパンCのオグリキャップとホーリックスの2-2も、馬券はロジータ中心だったんですが、”浮気”して取ったんですよ。その時はカニでした。久しぶりに思い出してきました(笑)。

(構成:スポーツ報知 坂本達洋、Photograher:山口比佐夫)

梅田 陽子
セントフォース所属。学習院女子大在学中より、日本テレビ「きょうの出来事」お天気キャスターとしてデビュー。2006年よりグリーンチャンネルキャスターとして、中央、地方競馬に携わっている。情報、スポーツ番組MC・リポーター、イベントMCとして活動中。馬とお酒と音楽(ピアノとチェンバロとパイプオルガンの演奏をします)が好き。

吉田 俊介
1974年北海道出身。(有)サンデーレーシングの代表で、ノーザンファームの副代表。中山馬主協会理事(広報インタビュー担当)。