ゲスト
越穂波 さん JRA人事部長

01. 競馬会に一番行きたいと思っていました

競馬会に一番行きたいと思っていました
アナウンサー梅田陽子さんがインタビューアーとなりお届けする「ホースと共に!」。今回のゲストは、2024年よりJRA人事部長(報道室長)に就任された越穂波さんです。前編では、越さんが競馬会に入ろうと思われたきっかけや、入会されてからどのような仕事に関わられてきたかをお聞きしました。

父親が「馬のいる動物園に行こう」と言ってきて

梅田今日はよろしくお願いいたします。まずご経歴などをうかがっていきたいと思います。お生まれはどちらでしょうか。

生まれたのは東京で、小学校に入る前に千葉県に引っ越しました。それで学生時代までは千葉で過ごしました。

梅田先日、実は越部長の後輩にあたると思うのですが、中京競馬場の山村差代場長の取材をさせていただきました。山村場長もご出身は千葉県でいらっしゃいましたよね。

そうなんですよね。私は船橋市なので中山競馬場と同じ市町村になります。

梅田そうなると子供の頃から競馬場に対しては、ご近所というか、なじみがあったのでしょうか?

はい。父親が大好きで、よく連れて行ってもらった記憶があります。

梅田実は私も中山競馬場のある市川市なんです。父に「馬しかいない動物園に行こう」と言われて…。

同じ台詞ですね(笑)。

梅田船橋育ちでいらっしゃって、学校ではどんな部活動をされていたんですか?

小学校の頃はいろいろな部活動をしていました。絵を描いたり、バスケットをやっていたんですけど、その後中学校の時は音楽をやって、高校では剣道部に入りました。

梅田中学校の時、楽器は何をされていたんですか?

バイオリンをやっていました。

梅田素敵ですね。私も音楽をやっていたので同じようなルートだなって思いました。私はピアノやフルートでした。

ストリングオーケストラといいますか、15、6人の小さい部活でした。こぢんまりと室内楽をやっていた感じでした。

梅田それで高校に行かれてから、どうして剣道部を選ばれたんですか?

もともと剣道をやってみたかったんです。だけど中学校の時に剣道部がなかったので、せっかくだから高校でやってみようと思ったのです。ちょっと…、黒歴史になりましたね(苦笑)。

梅田でも、いろんな経験をされたのはいいことですよね。それで大学に進まれて…。

大学時代は下宿をしていまして、それが東京競馬場に近かったものですから、また父親が「馬のいる動物園に行こう」と言ってきました。それで父親と一緒に競馬に行ったり、サークルの友達を連れて行ったりして、帰りは飲んで帰るというのが週末の定番といいますか、そんな大学生活でした。

梅田それだけうかがうと、越部長の大学生活って“蛮カラ”な、すごく昭和ないい感じがしてきます(笑)。今、サークルのっておっしゃいましたけど、大学時代はどんなサークルに入っていたのですか?

文化系のものや、よくあるシーズンスポーツ系のものであるとか、いくつか入ってちょこちょこ活動していました。

梅田みんなで楽しもう!という感じのサークルですね。

そうです。でもあまり真面目には通っていませんでしたね。

梅田そうなんですか。大学時代は下宿生活で楽しい4年間を過ごされたんですね。

ただ、門限のある下宿だったので、いつも割と時間を気にしながら飲んでいました。都心からは離れた場所で、けっこう電車を乗り継いで時間のかかる感じの場所でしたので。たとえば「新宿なら10時に出なくちゃいけない」とか、そういうような学生生活を送っていました。

最初にきれいだなと思ったのはテレビで見たテンポイント

梅田何だかいいですね。親御さんからしたら安心ですもんね。そうやって大学で学ばれた後にJRAに入られたわけですが、もともと就職活動ではいろいろな選択肢のうちのひとつにJRAがあったのですか?

JRAでなければ、不動産系に行きたいと思っていました。当時は景気のいい時代でしたし、大きくてきれいな建物を作ったりするのは楽しいかなと思っていました。でも、競馬会に一番行きたいと思っていました。

梅田やはりお父様の“英才教育”があったからこそですか。

幼心に馬という生き物の美しさとか、競馬場の熱気とか、買ってもらった食べ物がおいしかったとか、同い年の子たちが余り経験していないような「ディープな世界」に割と小さい頃から染まっていたというか、それに心地よい感じを受けていたので、「ここだったら…!」と思っていました。

梅田もし覚えていらっしゃったらなんですが、子供の時にご覧になった馬で記憶に残っている馬はいますか?

最初にきれいだなと思ったのはテレビで見たテンポイントです。当時はパドックを周回する時、鞍の上のかまぼこ板みたいな板に馬名が書いてあったりして、不確かですけどそんな記憶はあります。よく競馬場に行っていた大学生の時は、それこそオグリキャップだとかタマモクロスだとか、そういう時代でしたので、女性の友達の中にもファンがいたんですよね。競馬を応援することが普通な時代だったかと思います。

梅田今ほどではなくても、だいぶ女性が競馬になじみつつあった時代だったわけですか。

オグリキャップのぬいぐるみを手に持ってきているような若い女性もよく見かけていました。今思うとUMAJOの走りでしょうか(笑)。

梅田でも、あの当時ってトイレとか女性が過ごすには、ちょっと過ごしづらいところがあったのではないですか?

そうですね。余りきれいではなかったですよね。古いイメージがありましたし、女性はお手洗いにしても時間がかかるし、けれど数が少なくて。荷物を置くにしても場所に苦労するとか。もちろんその頃は和式しかなく、何か落ち着かないな、女性向けに作った施設じゃないよね、というのはありましたね。今から考えると、すごく変わったなと思います。もっときれいになればいいな、とは思いますね。

最初に配属された中山競馬場でオグリキャップのラストラン

梅田そうですよね。それで越部長が入会されて、最初はどんな部署に配属されたのですか。

入会して最初に配属されたのが中山競馬場だったんです。2年間、新人としてお仕事をさせていただいて、有馬記念のオグリキャップの最後のレースも投票所の中のモニターで見ました。朝からめちゃくちゃ混んでいて、お昼も食べられないくらいお客様が多くて大変だった記憶があります。

梅田そうでしたか。お客様が並んでも買えないというくらいだったと聞いていますが。

はい。窓口を開ける前から大勢のお客様の雰囲気が感覚として伝わってきて、いざ窓口を開けたら、すし詰めみたいな状態で歩くのも苦労するような感じでしたね。

梅田子供の頃から見ていた地元の中山競馬場へ実際に配属されて、その印象は違いましたか? それとも同じでしたでしょうか。

やはり内側から見られるようになって、お客様の立場で外から見ているのとは違いました。いろんな仕事の分担によって業務があり事細かに職員が仕事をしていらっしゃって、まさに競馬をきちんと施行していくための裏方の仕事なんだな、と感じました。

梅田中山での2年間の後は、どちらに行かれたのですか?

当時の総合企画室、今の経営企画室ですね。そこへ3年間行きました。

梅田どんなお仕事内容だったのでしょうか?

施策的なことですね。私は入社して3年目、会議の下準備をしたりとか、上司に指示されたレジュメを作ったりとか、基礎的なことから経験させていただきました。いろいろな新しいことが情報として入ってくるので、先輩方の働き方を見て、すごく勉強になったと思います。

梅田テキパキといろいろできることが求められそうですね。

テキパキとできたら一番良かったんでしょうけどそこまでは…(苦笑)。総合企画室に3年在籍しましたが、阪神淡路大震災が平成7年1月に起きて、その翌月に阪神競馬場に転勤しました。そこでは震災後、阪神競馬の再開に向けて仕事をしました。

「自場の開催はいいな!」と思った記憶

梅田それは大変なお仕事だったと思います。

スタンドの設備などもあちこち壊れていますし、住むところがない状況でした。ですので開催の時にジョッキーが宿泊する調整ルームをお借りして、何か月かそこに住まわせてもらいながら、仕事に通いました。

梅田大変な被害でしたから、あの時は復興まで時間かかりましたよね。

地震でスタンドのスプリンクラーが作動して、お客様のフロアが水浸しで備品も全部壊れていたりとか、そういった片付けも含めて復旧作業も多かったので、大変でしたね。

梅田開催が止まるくらいでしたから、いろいろなことがありますよね。阪神には、どれくらいいらっしゃったのですか。

2年間いまして、その後は本部に戻ってシステムの担当をしました。

梅田阪神で記憶に残っているレースってございますか?

レース自体はあまり覚えていないんですけど、阪神競馬場って事務所の外のすぐそこに勝ち馬柵があって、事務所からもレースから戻ってくる馬が見えたりするんですよ。それを見て「やっと阪神競馬が再開したんだな!」と嬉しく思った記憶はあるんですけど、それが何レースでどの馬かは全然記憶になくて…すみません。

その土地、その土地にはいいものが必ずある

梅田いえいえそんな、当時は大変だったと思いますし、越さんならではの印象的なエピソードだと思います。ちなみに配属先について、ある程度自分の希望などは通るものなのですか?

どの会社でも一緒だと思いますけど、時と場合によるのではないかと思います。

梅田システムのお仕事をされた後はどちらへ行かれたのですか?

新潟競馬場に行きました。新潟競馬場もスタンドの建て替えのタイミングだったので、古いスタンドを壊して、開催をお休みして、平成13年に新しいスタンドで芝1000メートルの直線コースも出来たりしました。そのタイミングで4年間いました。

梅田阪神競馬場でもそうでしたけど、「新しくするところに越さんあり」という感じに思えます。

全国どこに行っても良いと思っていたのですが、どこでも平気そうだね、ということかなと思います(笑)。

梅田ご自身でもそういう性格だなって思われますか(笑)?

転勤も含めて場所が変わることなどが全然気にならないタイプなので、行った先で楽しむと言いますか、どこでも楽しいです。

梅田行った先で楽しめるというのは、どんな仕事でも大事なことですよね。順応性というか才能だと思います。

自分の性格としては、少し人見知りなところがあるし、最初から誰とでもしゃべれるタイプではないのですが、その土地、その土地にはいいものが必ずあるので、それを楽しむという感じでしょうか。

梅田新潟のご当地の土地柄などはいかがでしたか?

新潟はお客様も含めてなんですが、人が真面目と言うか実直だなと感じました。県民性なのですかね。競馬場の近くに温泉があったりとか、海が近いので食べ物もおいしいですし、生活するにはとてもいい環境で楽しく過ごさせていただきました。

梅田確かにそうですよね。新潟競馬で好きなレースはありますか?

実は関屋記念がすごく好きなレースなんです。マイルの距離もいいなと思いますし、学生の頃に夏休みで1度観に行ったことがあるんですよね。夏の開催で、このカンカン照りのなか、馬が頑張って走るのをビールを飲みながら、「新潟の馬場でこそ持ち味が生きる馬もいるんだろうな」とか思いながら見ていました。東京の同じ距離のレースとは、また違う感じで面白いと思います。そういう面もローカル競馬場のいいところでしょうね。

梅田新潟に4年間いらっしゃった後は本部に戻られたのですか?

新潟競馬場から函館競馬場に転勤しまして、東京に戻るのかなと思っていたら、もっと遠いところに行きました。函館の古いスタンドの時ですね。

梅田函館競馬場はいかがでしたか?

函館は開催があっという間に終わるじゃないですか。一瞬で終わってしまって、あとはパークウインズが延々と続く感じです。函館開催の時期は「えぞ梅雨」と言いますか、1回函館の時は雨などが降って寒かったりして、ちょうど開催が終わった頃がさわやかで一番いい時期になるのになと思ったりしていました。ただ、やっぱり夏の札幌開催が終わるまではずっとたくさんの馬が滞在しているので、その点は意識していましたね。

梅田札幌開催中も“裏函“として多くの馬が滞在していますものね。

関係者の方もたくさんいらっしゃるので、ちょっと飲みに行くと「あっ!あの人は…」みたいなこともよくありました(笑)。

梅田同じ夏の開催でも、函館と新潟では違いますよね。

新潟の話にまた戻ってしまいますけど、新潟の時は調教監視の当番がありました。騎乗されている方がケガされたりとかした場合に、各所に連絡する予備要員として、朝の5時から調教をスタンドでずっと見ているという役目でした。若手の職員で当番を回していくんですけど、それを寝飛ばしたことはあります(苦笑)。

梅田朝早いですから、そういうこともありますよね。私も飛び起きてスタジオに出かけたことがありますから(苦笑)。なかなかそういうお仕事って外からでは分からないですね。

「何かあったら車も運転するんだぞ」と言われていたんですけど、その車両はギアがマニュアルの車だったんですよね。それで私はマニュアルの車を運転できなかったので、「その時は誰かを呼べ」という感じで、何も起きませんようにと願いながらやっていました。もちろん自分だけではなくて、ちゃんと業務課の係長とか乗馬センターの担当の方とかもいたので、大丈夫だと安心していましたが。たまに朝に調教師さんがスタンドにいらっしゃって、「よお!」みたいな感じで話をしてくださったりしました。そんなやり取りも面白かったです。

梅田昔はそういう勤務も多かったんですね。

今は日帰り主体だったりするじゃないですか。昔は滞在している馬も多くて、そんな昔の時代の思い出があります。

(構成:スポーツ報知 坂本達洋)

梅田 陽子
セントフォース所属。学習院女子大在学中より、日本テレビ「きょうの出来事」お天気キャスターとしてデビュー。2006年よりグリーンチャンネルキャスターとして、中央、地方競馬に携わっている。情報、スポーツ番組MC・リポーター、イベントMCとして活動中。馬とお酒と音楽(ピアノとチェンバロとパイプオルガンの演奏をします)が好き。

吉田 俊介
1974年北海道出身。(有)サンデーレーシングの代表で、ノーザンファームの副代表。中山馬主協会理事(広報インタビュー担当)。

※この記事は 2025年9月2日 に公開されました。

×