ゲスト
井関隼 さん 競馬実況アナウンサー

02. やっぱり好きだという気持ち 実況愛、競馬愛しかない

やっぱり好きだという気持ち 実況愛、競馬愛しかない
産婦人科医、大学の非常勤講師、競馬実況アナウンサーなど異色の肩書きを持つ井関隼さんをお迎えしてお届けする梅田陽子の「ホースと共に!」。後編では、どのようにして競馬実況アナウンサーになったのか、今後の目標などをお聞きしました。

競馬実況アナウンサーへの道を紡いだ縁

梅田それこそ、その当時はどこへ向かおうとしていたんですか?ただただ、楽しいうれしいだったという気持ちでやっていらっしゃったのでしょうか。

井関う~ん、分からないですね。だけど、その当時は最高の趣味だと思っていました。それにやっぱり夢は夢として頭の片隅にはありましたからね。それに常にラジオNIKKEIで「アナウンサー募集」とか採用案内が出るじゃないですか。それもいちいち気にしていたりしていましたけど、いやどうせ無理だよな、応募書類に必要な長い文章なんて書けないよな、しかもアナウンサーのほとんどの方が知り合いになってしまったので、こんなやつが来たら絶対に落とすだろうし、そもそも厳しいだろうな、とか思いつつ、ずーっと日々が過ぎていきました。僕は産婦人科医になり、そういうことも忘れつつはいたんですけど、ついにある時に募集要項にある年齢制限を超えてしまったわけですよ。それでついに、「あっ、超えてしまった…」と気づき、僕はアナウンサーにはなれない運命だったんだと悲しんでいた矢先にですね…。

梅田またまた、すごい出会いが?

井関それは僕が今お世話になっている会社(ダート・プロダクション)の社長である三宅きみひとアナウンサーとの出会いです。昔、(競馬や馬文化などの情報発信施設の)プラザエクウス渋谷というところがあって、そこで素人実況アナウンサーコンテストというのが行われていたんです。そこで合計3回行われたんですけど、その第1回に三宅きみひとアナウンサーが出場されていて、僕も第1回のコンテストの出場をOKされていたんですよ。僕はテープレコーダーにアドマイヤベガが勝った日本ダービーの実況を録音して送って、審査に受かって、出場してくださいという手紙が来ていました。

梅田それでは三宅さんと一緒にコンテストでしゃべる権利を与えられていたということですか?

井関はい。だけど手紙を母が見てしまい、「あんた何これ」と。「こんなの出たらわかってるよね?高校生なんかが参加するもんじゃない!」と強めに言われて、泣く泣く辞退させていただきますとなったのですが、見に行くのはいいと言われたので、母と一緒にプラザエクウス渋谷に行ってアナウンサーコンテストを見に行きました。それでいろんな素人さんが実況をやっていて、フジテレビの三宅正治アナウンサーとラジオたんぱの白川次郎アナウンサーが、上手ですねとか、ここをこういうふうにしたらもっと良くなるみたいな解説を加えてくれる、夢のような会だったわけですよ。それで6人の方が実況を披露した後で、なんと「会場にいる人から1人だけやってみませんか?」と飛び入り参加を募集してくれることになったんです。それで僕の性格上、絶対に手を上げるんですけど、手を上げさせまいと母が止めるわけですよ。ダメって。それで他の人が当たっちゃって、その人がラジオ日本で実況することになる斎藤一平アナウンサーだったんですよ」

梅田それでは本当に泣きながら見ていた感じですね。審査を通ったのに出られないって泣いて、また会場で止められて泣いて…。

井関高校生でしたけど実際に泣いていたと思いますね。高校野球で負けた高校球児くらい泣いていたと思います。とにかくそこで面識はもちろんないですが、三宅きみひとさんと一度出会っているんです。その後に僕がmixi(ミクシー)で放送席でバイトをしていて、実況のまね事もしていますとか書いているのを見て、三宅さんが見つけてくれて縁ができたんです。三宅きみひとアナウンサーはダートプロダクションの社長なんですけど、獣医さんでもあるんですよね。

梅田三宅さんも獣医として、大阪市の職員として働かれた後、アナウンサーになられましたよね。異色の経歴ですよね。

井関三宅さんは北里大学の獣医学科を卒業して獣医のお仕事をされていて、僕は医学部に通っている。どちらもいわゆる“競馬実況オタク”だったわけです。それでお互いにどんな実況が好きなの、どんな練習をしているのとか交流を持ったりして、さっきの僕の話した競馬仲間との放送実況のまね事みたいなことを三宅さんとも1、2回はやっています。

梅田それもすごい出会いです。同じような境遇というか、お互いに共感できるものがあったのでしょうね。

井関その通りなんですよ。三宅さんはその後、大阪市の職員になって、獣医の仕事も何年かやられているんですけど、やっぱり競馬実況、アナウンサーになる夢を捨てきれなくてアナウンサーの世界に飛び込んだんですよ。

梅田スポーツ実況のアナウンサーになられたんですよね。サッカーとか野球とかいろいろ実況されて。

井関ユウセイプランニングというところで寺西裕一アナウンサーの弟子になり、それで三宅アナウンサーは本当のアナウンサーになられて競馬実況が放送に乗るようになりました。僕はその放送を指をくわえて聴いていて、くやしかったですね。ただ1年に1回くらい関東に来てくださったり、僕が関西に行ったりした時に飲みに行って「あの実況よかったですね」「この表現はどういう意味ですか」とか“実況飲み”みたいな交流が続きました。僕は医師になり、三宅さんは獣医でありながらアナウンサーとなり、お互いの夢を語っているなかで、「いつか一緒にお仕事できたらいいよね」とか話していました。「僕は獣医上がりでアナウンサー。しかも、あるある君はお医者さんで競馬実況。いつの日か同じような仕事が出来たらいいね。話題になるかもしれないね」とか、冗談で言っていたんです。

まさかのオファーから競馬実況アナウンサーの夢をかなえる

梅田それはいつ頃の話ですか?

井関僕が医学生の時だから、15年くらい前でしょうかね。医者になってからもそんな話はしていましたが。だから20年来の付き合いですよね。ずっとそういう交流が続いていて、三宅さんがダートプロダクションで仕事をしていたなかで、(社長をされていた)吉田勝彦さんが実況を引退されるということもあり、三宅きみひとアナウンサーが社長に就任されたんですよ。そこでいろいろなことが落ち着いたところで、「あの時の夢、捨ててない?一緒に仕事をするんだったら、今が一番チャンスかもしれないよ。」と言っていただいたんです。何かデータやバックアップなど競馬も実況も好きだからいろんな競馬の仕事のお手伝いはしますよ、って受け身でいたんですけど、「実況に決まってんじゃん」と。それが2022年の暮れのことです。新橋の飲み屋で、ぶわーって涙が出ました。それで医者をやめるというのも選択肢だったのですが、人に迷惑をかけたくないし、親の夢のこともあるし、せっかく今の地位を築いたなかでやめるのもちょっと違うなと思ったので、「1年待ってください」と返事をしました。それで仕事の調整などできる限りのことはするし、毎週そちらに行くのは厳しいかもしれないけど、そういう考え方でいいのであればとびこもうと思っていますと伝えました。

梅田その頃は大学病院で勤務医として働いていた時代ですか?

井関いや、大学病院はすでにやめていました。フリーでいろいろな病院で仕事をしつつ、当時はしゃべる仕事はしたいからということで、今やっている講師の仕事を始めていました。それでなんとか調整できそうだとなって、2024年の4月、ステレンボッシュが勝った桜花賞の後の夜に(大阪市の)十三の焼き肉屋で改めてよろしくお願いしますと頭を下げました。そこで「分かりました。じゃあ本当に実況してみますか!」ということを言ってくださって、1か月に1回の研修に行ったり、仕事のノウハウを教わったりとか、それこそ吉田勝彦さんにご挨拶をさせていただいたりとかして、去年の8月30日に実況アナウンサーとしてデビューをさせていただいたという流れです。

好きだという気持ちが一番だと思います

梅田素晴らしいお話ですね。すごいです。周りを巻き込む力というか原動力がすごいですね。井関さんの原動力って、自分から見て何だと思っていらっしゃいますか?

井関やっぱり好きだという気持ちじゃないですかね。それが一番かな。それと愛しかない。実況愛、競馬愛しかない。僕は競馬にも実況にも、いろんなシーンや場面で助けられてきたので。だから競馬の神様に恩返しをするには、自分が伝える側にならなければいけない、というのが自分のなかにあって、いつか実況という形ではなくても、そういうことはしたいと思っていたんですよ。だからずっとあきらめないで競馬にも取り組んできたし、実況の練習もしてきました。好きだという気持ちが一番だと思います。

梅田医師と実況アナウンサーの二刀流。講師もやって三刀流になっていますけど、そのことに対して何か気を付けていることはありますか?

井関それは一定のレベルを保つということに尽きると思います。実況に関しては失敗しないということはもちろんですし、ファンの皆さんにできるだけ分かりやすく、いい実況を心がけているつもりです。医者としても、「あの人はアナウンサーやっているから、こんなこともできないんだ」って思われちゃったらダメだと思うので。たとえば基礎知識や最新治療のアップデート、お産のとり方だったりとか、同業者だったり患者さんとかに迷惑がかかるようなレベルにはならないように、少なくともレベルを落とさないようにと思っています。講師に関しても、「先生そんな情報は古いですよ」「他の先生は違うこと言っていましたよ」って、学生たちに不信感ができちゃったらダメだと思うので、人に迷惑のかからないような一定のレベルを保つのが一番です。外野の人からは出る杭として打たれたり、いろんなことを言われると思うんですけど、少なくとも自分のそばにいてくれる人たちは裏切らないように信頼されるようでいないといけないというのがベースにあります。

梅田なるほど。今、三刀流になったことで周りの人たちの反応は変わりましたか?

井関特に医者の仲間、小、中、高校の友達には「えっ、マジで本物になっちゃったの?」って言われました。みんな僕が好きだということは知っていたし、やっているのはずっと知っていたけど、ずっとなんちゃって、でしたから。「信じられない」「夢がかなってよかったね」とかいろいろ言われましたね。

梅田天国のお母さんもご存命だったら、どんな言葉をかけてくれたでしょう。喜んで見ていてくださっているはずだと思いますけど。

井関「本当になっちゃったのね」って言われると思います。こいつ本当になりやがった、と。

兵庫県競馬を盛り上げてアナウンサーとしてもステップアップを

梅田井関さんが次にやりたいこと、目標などはありますでしょうか?

井関今はとりあえずこういう身分になれたので、やっぱり競馬、特に園田や姫路を盛り上げたいです。JBCの開催や発展をまずはそういうことに一役買えるような存在になるのが目標です。

梅田なるほど。ダート・プロダクションの三宅さんに対する思いもございますよね。

井関そこはやっぱり恩人なので。僕の夢をかなえてくれた恩人だから、三宅さんのことは少なくとも裏切れないし、これからも一緒に頑張っていきたいと思います。あとはそのなかでアナウンサーとしてステップアップしていきたいと思っています。

梅田可能性しかありませんよね。今度は野球の実況もされると聞きましたが。

井関そうなんですよ。高校野球の予選のお仕事をさせていただきます。なので練習をしていますよ。スコアブックの書き方が難しくて四苦八苦して覚えています。

梅田あと(競馬の)スターターにもとても興味を持っているんですよね。井関さんは競馬全体を見ている方なので、引き出しが多すぎて、この人なんの人なんだろうなと思わされます。

井関競馬実況好きはいても、スターターにいく人はなかなかいないでしょ、って気づいたのがきっかけです。スターターのことをSNSなどでいろいろ取り上げていたら、当事者の方々が見てくださっていたみたいで、人間性も含めてより深く興味を持つようになりました。

梅田スターターの方々も見てくれているのはすごくうれしいはずですからね。こういう仕事をやっているんだと分かってもらう紹介に一役買っているというか。

井関それで写真を撮る人がすごく増えて、ご本人たちにご迷惑をおかけしているかもしれないですけど、スターターも重要な役割だし、あまり目立たないけど目立っている仕事。そういう“縁の下の力持ち”みたいな人にスポットを当ててあげたいと思っているので、そういうものの伝え方をしていきたい。競馬だったらスターター、野球だったら審判さん。当たり前のことを当たり前にすることは、実はとても大変だと思っています。スターターとか審判も失敗するとすごく叩かれてしまうのに、たとえばいいスタートを切っても、いい判定をしても、ほめられることはあまりないじゃないですか。普通にやって当たり前、失敗したらすごく叩かれる。これは医者と一緒なんですよね。何千人に感謝されてもたった1人に対してでも医療行為で失敗したらダメなんです。そのなかで共感するものがあったり、そういうお仕事を尊敬しているという部分が強いです。

梅田井関さんは10年後、20年後、どうなっていると思いますか。改めて目標などをお聞かせください。

井関医者をやめるつもりはないですし、アナウンサーとしては、もっと上手になりたい。この2つですかね。僕はいろんな人に夢をかなえてもらったので、今度は自分が他の人に夢を与えていかないといけないなとは思っています。

(構成:スポーツ報知 坂本達洋)

梅田 陽子
セントフォース所属。学習院女子大在学中より、日本テレビ「きょうの出来事」お天気キャスターとしてデビュー。2006年よりグリーンチャンネルキャスターとして、中央、地方競馬に携わっている。情報、スポーツ番組MC・リポーター、イベントMCとして活動中。馬とお酒と音楽(ピアノとチェンバロとパイプオルガンの演奏をします)が好き。

吉田 俊介
1974年北海道出身。(有)サンデーレーシングの代表で、ノーザンファームの副代表。中山馬主協会理事(広報インタビュー担当)。

※この記事は 2025年7月8日 に公開されました。

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