ゲスト
井関隼 さん 競馬実況アナウンサー

01. 産婦人科医、競馬実況、医大講師の“三刀流アナウンサー”

産婦人科医、競馬実況、医大講師の“三刀流アナウンサー”
アナウンサー梅田陽子さんがインタビューアーとなりお届けする「ホースと共に!」。今回のゲストは、井関隼さんです。井関さんは、フリーランスの産婦人科医でもあり、大学の非常勤講師でもあり、地方競馬の場内で実況を担当する競馬実況アナウンサーでもあります。前編では、異色の肩書を持つまでに至った経緯を井関さんに伺いました。

競馬との出会いはテレビゲームと奇跡の有馬記念

梅田今回は井関隼さんをお招きいたしました。よろしくお願いいたします。井関さんの肩書って、産婦人科医、実況アナウンサー、そして大学の非常勤講師など本当に異色だと思いますが、このインタビューの直前まで大学の講師として授業をしていたんですか?

井関(肩書は)少なくとも3つはありますね。金沢医科大学で非常勤講師をやらせていただいていて、できるだけ現地に行こうとはしていますが、行けない時はリモートで講義をしています。僕は留年生の講義をしていて、僕も留年した経験があって、彼らの気持ちがよく分かりますし、5年くらい前に声をかけてもらって、非常勤講師として働かせてもらっています。

梅田あと、3児のパパでもありますよね。

井関それは肩書じゃないかもしれないですけど、そうですね。

梅田肩書だけでも規格外過ぎてすごいですね。目標に向かって走っていく、集中して気持ちをもっていく姿勢は、いろんな方にとってすごく参考になるのかなと思います。一生懸命にやってこられたことは、すごく伝わってきますからね。井関さんは、子供の頃からそんな感じだったのでしょうか。

井関僕の競馬との出会いは、「ウイニングポスト」というゲームだったんですよね。10歳くらいの時です。友達の家にあった競馬ゲームで「おっ!こりゃ面白いな!」と思って、自分でも買ったというのがきっかけです。それで、たまたまその時の日曜日にやっていたのが有馬記念だったんですよ。(1993年に)トウカイテイオーが復活勝利をした時です。その実況を聴いていて、フジテレビは堺正幸アナウンサー、ラジオたんぱは白川次郎アナウンサーが実況していましたけど、「実況、かっけえ!」と思っちゃったんですよ。それで梅田さんは僕のことをご存じだと思いますが、すぐ泣いてしまう“感動屋さん”じゃないですか。そういうわけで10歳の子供が感動しちゃったんですよ。実況がかっこいい、ということで完全に感化されてしまって、「ああ、これだ!」というのが自分のなかにできてしまったのです。

梅田そこで、はまってしまったんですね。

井関だから競馬ゲームをやっていても“実況癖”というのがついてしまったんです。完全に“耳コピ”で何々が来ました、何々も…と。当時の競馬ゲームは画面の下に実況の文章なんて表示されませんでしたし、馬がただただ走っていて、自分の馬だけが光って表示されているとかぐらいでしたから、自分で出馬表とかを作って自分で実況をしたりして。あと当時は小学生なので「マリオカート」とか野球ゲームの「ファミスタ」を友達とやりながら、なぜか実況もしていたんです。当時から“実況癖”というのがありました。自分がアナウンサーになるんだというつもりで、小、中学校を過ごしていたのかな。今思えばそんな気がします。

梅田当時のお友達や先生とか周りの皆さんからは「井関君はいつも実況してたよね」って言われるような感じだったんですか。

井関絶対にみんな知っていますからね。「昔からあいつはそうだったよね」って(笑)。

梅田そうなると学校の運動会で誰かが走っているのを実況したりもしていたんですか?

井関していましたよ。リレーとかでもしていました。それでやっぱり「うるさいな」と思うような友達はサーッと避けていったし、「面白いな。上手だね」と思ってくれる人は近寄ってきてくれましたね。僕が勝手に実況しているのを知らない父兄の方が撮っていたこともあったので、もしかしたら今探してみたらお宝実況が発掘できるかもしれません。

梅田今の話を聞いて、井関さんは子供の頃と変わっていないんですね。以前に大人になってから競馬場で実況をしていて、普通のファンのおじさんたちが集まってきてくれた話を聞かせてくれましたけど、実は子供の頃からそういう片鱗はあったということですね。

井関そういう意味では変わっていませんね。

梅田純粋な気持ちのまま、おじさんになった感じですね(笑)。

井関そうそう、そうなんです(笑)。だから競馬中継とかもビデオテープに録画して、実況を聞いたりしているなかで親のいない時にミュート(消音)にして自分で実況をつけたりとか、勝手に自主練をしていました。

梅田すごいですね。親がいないところでとおっしゃっていましたが、ご両親の理解はあったんですか?

井関なかったです。父は当時、仕事人間だったからほとんど家にいませんでしたし、母は競馬にはまってほしくはない考えでした。母は僕が医者になってほしかったので、医者になるように将来のレールを敷いているつもりだったんですよ。そんななかで僕が競馬にはまりだしちゃったので、大反対でした。

梅田お母様は息子が大変な方に進んでしまいそうだとヒヤヒヤしていたのでしょうか。

井関だから競馬のビデオを録画しているのも反対だったし、競馬を見ていても嫌な顔をしていたので。その頃は思春期で普通はアダルトビデオを見ていそうなところを、僕は親に隠れて競馬のビデオを見ていたんですよ。親が買い物に出かけると、「チャンス!今しか実況の練習するチャンスはない」と思ってやっていて、(帰ってくる)エレベーターの音が聞こえるとビデオを止めて、「普通のテレビを見てたよ」みたいな感じでごまかしてやっていました。

梅田思春期の男の子がエッチなビデオを隠れて見たりしようとすることを、完全に競馬版でやっていた感じですね。井関さんの家はおじいさまがお医者様だったとうかがいましたが、お母様も継いでほしかったという気持ちだったのでしょうか。

井関母は医者にはなれなくて音楽大学に行ってピアノの先生になったんですけど、母の兄弟もみんな医者なんですよ。僕にとってはおじさんたちですね。なので自分はなれなかったけど、自分の子供は医者にしたいという思いがたぶんあったのだろうと思います。

梅田それに対して反発する気持ちもあったのでしょうか。

井関ありました。呪文のように医者になれ、医者になれ、でしたから。たとえ言われなかったとしても、ひしひしと感じるものがありましたから、むしろ絶対に医者にはなりたくなかったですね。親のレールに沿った人生なんて歩んでなるものか、と思っていたので。だからそういう意味でも、それ以上に情熱を持てる好きなもの、そういうものがないとダメだとは思っていました。それがたまたま競馬実況アナウンサーだったということなんです。

憧れの競馬アナウンサーにまさかの直撃で完全に熱が入る

梅田誰の実況が好きで、特に練習していたとかはありましたか?

井関僕は今もそうなんですけど山本直也アナウンサーの実況が好きなんです。「踏み切ってジャンプ!」の。だから僕は今もSNSなどで山本直也アナウンサーに似ていると書かれたりしていますし、山本直也アナウンサーの実況がベースなんです。山本直也アナウンサーの“まね事”からスタートしているんですよ。もちろん、自分なりにアレンジをして変えていっているつもりなんですけど、どうしても山本直也アナウンサーの言葉の使い方などが根底にあります。

梅田「学ぶ」ということは、まずは「マネぶ」ことだから、って私も教えられたことがあって、すごく分かります。まずはベースになるものがないとアレンジもできませんよね。井関さんもそうだったんですね。

井関そこで一つきっかけになった出来事があるんです。山本直也アナウンサーのまね事ばっかりしていて、自分でテープレコーダーとかに録音して自分の実況を聴いたりしていたんですが、当たり前ですけど、どうしてもすごく下手なんですよ。それで実況がうまくならないなと悩む時期とかもあったのですけど、そこで中学校2年生の春くらいに、たまたま競馬実況のレジェンド、長岡一也アナウンサーと電車のなかで出会ったんですよ。それで今しかチャンスはないと思って、アタックしたんですよ。「長岡さん、僕は競馬実況のアナウンサーになりたいんです。でも、どうしても上手にならなくてうまくできないんです。どうしても人のマネばっかりになってしまって…」という相談をぶつけたら、「いや、最初はマネでもいいんだよ。そこから自分の形に少しずつアジャストしていけばいいわけだし、最初はものまね、まね事でも全然悪くないよ。頑張ってね」と言ってくださったんです。

梅田よく電車で会うなんてことがありましたね。普通、なかなかないと思います。

井関僕って「人の縁がある」というのがベースにあって、どこかに行くと絶対に知り合いに会っちゃうんですよね。そういう神様のお導きがあるというか、そういう運を持っているのかもしれません。

梅田すごい!なかなか実況が好きで長岡さんに駅でバッタリ会うなんてドラマみたいな話、普通はありませんからね。さらっとおっしゃいましたけど。

井関しかも後から聞いたら、それを競馬ブックのコラムで記事にしてくださっていたみたいなんですよ。電車で中学生に話しかけられて、彼は競馬の実況アナウンサーになりたいうんぬんで、僕はこうアドバイスして、中学生の将来に幸あれ、みたいなことを書いてくださったようでした。後に競馬場の放送席でアルバイトをするようになってからご本人に言われて、そのことも含めてすごく印象に残っています。僕は目の前にいるのが長岡さんと分かっていて、声をかけようか、どうしようか、と迷っていて、たまたま長岡さんがある駅で降りたので、そこで僕は友達と2人でいたんですけど、「ちょっとゴメン!用事を思い出した!」って言って降りて、それで長岡さんがベンチで待っていたところに話しかけに行ったんです。

梅田それは何かの奇遇というか必然というか、井関さんにとって宝物みたいな出来事でしたね。憧れの競馬実況アナウンサーである長岡さんに会えて、それで余計に火が付いてしまったんじゃないですか?

井関それで火が付いたというか、完全に真っすぐ“こう”なりましたよね。僕は実況のアナウンサーになるんだと、その時に完全に熱が入りましたね。ちょっと話が飛びますけど、ラジオNIKKEIで技術のバイトをしていた時に長岡さんと再会して、「あの時の…」と伝えて、しかも医学部に通っていると言ったら、「あの時の?本当?医者になるの?すごいね~」みたいな話をしてくださったんです。それで去年初めて競馬の実況をさせていただく時にラジオNIKKEIへご挨拶に伺ったら、たまたま長岡さんがいらっしゃったんです。それで今度、園田競馬場で実況をさせていただくことになりましたと言ったら、自分のことのように喜んでくださって…涙が出そうでした。

梅田あれから何十年…っていう話ですよね。その出会いからせっせと実況の練習に励んだり、毎日無我夢中でしゃべる日々が続いたわけですね。

井関そうですね。中学校、高校はそういう感じでしたね。だからアナウンサーになるには声の出し方、ちゃんとした声を出せるようにならないといけない、と思って、高校は演劇部に入ったんですよ。

高校時代の演劇部で人に伝えることの素晴らしさを学ぶ

梅田井関さんは獨協高校に進まれたと聞きましたが、獨協には医大もありますし、一方でお医者さんになろうという考えも頭の片隅にはあったんですか?

井関確かに頭の片隅にはありましたし、母としては作戦成功だったんだと思います。

梅田周りも医学部に行くようなお友達が多かったんですか?

井関多かったですね。でも競馬熱は冷めないし、(親は)演劇部に行っちゃったよ…、みたいに思っていたと思います。医者になろうとする人で演劇部はあまりいませんからね。だから僕、医学部受験の予備校に通った時に「演劇部です」って言ったら先生たちに馬鹿にされましたもん。

梅田あまりお医者さんとリンクしないからなんでしょうか?

井関理系の部活やスポーツ系で体力をつけてから行く人が多いなか、文系の演劇部でしたから、そこは父も母もびっくりしていました。

梅田そうなんですね。獨協高校の演劇部では大会とかに出場することもありましたか?

井関はい。もちろん男子校ですから恋愛ものとかはできないわけですよ。なので勢いよく笑っていただくようなものをやるしかないんです。当時、演劇部にも甲子園みたいなものがありまして、それで優秀な成績をおさめて次の年に半蔵門の国立劇場で1度やらせていただいたのが一番の思い出です。

梅田すごい!ちなみに演劇部のお友達のなかにも、井関さんと同じように医療従事者になられた方はいらっしゃったんですか。

井関ほとんどいないです(苦笑)。後輩に1人、歯医者がいますけど、それほどレアな感じですよ。

梅田そうなんですね。その時の発声とか演劇部での経験が今に生きていると感じることはありますか?

井関まずはやっぱりお腹から声を出すやり方でしょうか。やかましくならないように、人にうまく響くような声の出し方や早口言葉もやりましたし、あと人の前に出る楽しさだったり、ひとつのことをやり遂げることの充実感だったりとかでしょうか。チーム的な要素もそうですし、国立劇場でワーッとやった時に会場の皆様が笑ってくださると地面がドッと揺れるんですよ。あれが忘れられない。人を楽しませる、人に伝えることって素晴らしいな、ということが演劇で一番学んだことですかね。

梅田自分でエネルギーを出しますけど、それが反響して戻ってきますものね。演劇もそうですし、実況もそうだと思います。つながっている部分はありますよね。

井関つながっていてほしいですね。

親の夢、母親の涙で医大へ進む

梅田高校時代は実況と演劇の3年間を過ごして、それから大学受験になると進路のことが出てきたのではないですか。

井関そんな感じですね。僕は勉強から逃げて、逃げて、逃げて…という一方、やっぱり競馬が好きだからビデオを撮るし、実況の練習もするし、演劇は演劇で春、夏、冬に大会があって、その練習で夜遅くに帰宅することも多かったので。結局は勉強をうまくできず、しかも理系ではなくて文系的なことばっかりしているから、数学とか理科の成績がなかなか伸びなくて、結果的に2浪することになるんですよね。それで医学部受験の予備校に通いつつ、そのなかで母の涙とかもあって…。

梅田母の涙って、いったい何があったんですか?

井関もちろん簡単にアナウンサーになれるわけではないし、競馬実況が好きで練習しているなかでも、なかなかプロの人と比べると自分が上手な実況をできているわけじゃないし、やっぱりそんなにうまくいかない。しかも、競馬しか実況できないなとも気づいて、簡単にはアナウンサーにはなれないなと思ったのです。ちょっと言い方は失礼かもしれませんけど、医者だったら自分がちゃんと勉強すればなれるのかなと思った時期があったんですね。それでどうしても両親は医者になってほしい気持ちがありましたから、母や父には「タイムリミットを2年だけちょうだい」と言って、2年間勉強して埼玉医科大学に入ることができました。

梅田よかったですね。でも、そこはアナウンサーになる人が多い大学に行くとかいう考えにはならなかったんですね。何とかお母様の涙の思いがあって、医学系に進もうと思ったのですね。

井関母の夢をどうしてもかなえなくちゃいけないというのと、僕は一人っ子だったので、家族というか親の夢を背負えるのが僕しかいなかったので。そのなかで(アナウンサーに)なったらなったで喜ばれるんだろうけど、なれるかどうかも分からないし、だったら形だけでも母親の夢をかなえる方向にもっていくしかないなというのが当時の自分の考えでした。だけど、競馬の実況アナウンサーという夢も当然捨てていませんでしたから。そういえば埼玉医大の受験って3月だったんですよ。1次試験を受かって、2次試験が面接なんですが、それが確か日曜日の朝で(埼玉県の)毛呂まで行って、僕は井関(いせき)の「い」で試験の順番が早かったんですよ。それで9時とか10時には終わったんです。それで今日は日曜日だ、競馬場に行けるなぁ…、と思って、面接試験の帰りに中山競馬場へ行って見たのがコスモバルクが勝った(2004年の)弥生賞。だから埼玉医大の面接の後に中山で「コスモバルク、ゴールイン!」と実況していたわけです(笑)。

梅田そんなことがあったんですね。わざわざ電車を乗り継いで、受験の後に競馬場へ行ってしまう受験生ってなかなかいないと思います。

井関今も変わらないですけど、自分でもエネルギッシュというか。

梅田やりたいことを貫く、というのは子供の頃から変わらないんですね。

井関出来ることならやっちゃえ、と思っています。それが昔からの自分のベースですね。

競馬実況への気持ちは熱く、とうとうラジオNIKKEIのアルバイトに

梅田それで2次試験も通って医大生になられたのですね。

井関はい。それが2004年です。それで僕が実況をやっているということから、SNS、mixi(ミクシー)などで友達ができて、今は競艇や競輪の実況をやっている阿部宣祐(あべ・のぶひろ)アナウンサーという方がいらっしゃるんですけど、阿部さんがラジオたんぱの実況アナウンサー養成講座に生徒として参加されていて、「養成講座を受けるとこういうことができるよ」「こういう事を教わったよ」とか、少し教わったりする機会ができたりしました。あとゲームセンターの競馬ゲームでも実況の練習をしていました。

梅田実況が出来そうなところなら、何でもやって練習していらっしゃったんですね。

井関それで、そういう姿を見てくださっていた方々が「じゃあ一緒に競馬場行こうよ」と言ってくださって、みんなで競馬場に行くようになりました。それまではずっと独りでやっていたんですが、そのおじさん達が来てくれるようになって、解説をお願いしますと言ったんですよ。「このレース、どう見ていますか?」とか、「馬券はどんなふうに買いましたか?」とか。それで“放送ごっこ”ができるようになったんです。周りからしたら、「何やっているんだ、こいつら?」と思われても仕方ないくらい、相当気持ち悪かったと思いますよ。ドン引きだと思います(苦笑)。だけど、彼らのおかげで実況だけではなくて、進行の勉強も競馬場の一般席でやる機会ができたんです。それで僕と阿部さんが実況や進行をやって、他の彼らに解説をやってもらったり、そういうことをずっとやっていました。

梅田それもすごいことですよね。全然知らない人たちまで巻き込んで、ひたすら実況の練習をやっていたということですもんね。

井関放送のまね事をやっていました。半端じゃない変態ですよ(苦笑)。そのなかで2004年の秋頃に阿部さんがラジオNIKKEIの放送席で技術のバイトを探しているという話を教えてくださって、そこで僕が2004年の秋くらいからラジオNIKKEIの競馬場の放送席でバイトをするようになり、ついに実況の現場に入れたのです。

梅田それは大学1年の秋ということですね。小学生の頃に競馬と出会ってから、約10年ちょっとの後には放送席で技術のバイトをするようになるまでに。

井関その時点である程度、自分としては夢はかなっているんです。憧れの競馬実況アナウンサーたちと、技術のバイトでは立場がかなり違うかもしれないですけど、一緒に仕事ができる。夢のような世界だったわけですよ。僕は実況アナウンサーの背中を見て、「かっこいい~」「すげ~」と。やっぱり人生、しっかりとやってきてよかった。満足していた自分がいました。

梅田そのアルバイトのことは、お母様は知っていらっしゃったんですか?

井関内緒でした(笑)。最終的にはバレちゃったんですけど。ただのバイトなので普通の格好でよかったのに、なぜかスーツにネクタイをして出かけていました。ちょっと学校の行事、学会があってとか嘘をついて、土曜と日曜の朝早くに家を出ていました。

梅田そうなると、もっと練習に励むようになる環境に置かれたわけですね。

井関僕が実況好きなこととかアナウンサーになりたがっているというのは、ある程度の周りの方は知ってくださっていたんですが、別にそこで練習をしているわけではなかったですからね。でも、1度勝手に現場で練習してしまって、メチャクチャ怒られたことはありました(苦笑)。TPOって知っているかと叱られましたよ。技術のバイトとして行っているのにそんなことをやってしまったのは、今から考えたらありえないと思うんですけど、当時は何か変なスイッチが入ってしまったんでしょうね。アピールをしたい気持ちもあったのかもしれない。それで、あわや出禁になってしまい、そこである意味で僕の実況アナウンサーとしての夢は終わったなと思った。そんな時期がありましたね。

梅田その頃はバイトにも慣れ始めて、人間関係も分かり始めて、ちょっとぐらいいいかな…という思いがあったのでしょうか。

井関たぶん、おごりがあったと思います。僕もできるんだぞ、というのを見せてやりたかった感じがあったと思います。当時、土日は完全に技術のバイトをするか、バイトが非番の日でも放送席に行ったりとか、また下(の一般席)で普通に実況の練習をしに行ったりとか、完全に競馬場通い。実況の練習としてはプロの後ろで見ていて、それにより似せていく感じでしたから、まあまあな感じでそれなりのレベルにはなっていたとおもうんですよね。もちろん下手ではありますけど、自分のなかでは“近づけている”というおごりがあったんだと思いますね。

梅田そのアルバイトをやっている当時も、下の観客席で練習もしていたんですか。

井関していましたよ。一般フロアの自由席の一番前の座席に陣取って、「ちょっと実況の練習しています」「うるさくてすみません」などと書いた紙を隣に置いたりしてやっていました。

梅田それって完全に実況の練習をしている新人アナウンサー状態ですよね。

井関だから、「アナウンサーさんですか?」って何人も声をかけられました。だけど、「いや、ただの練習なんです」「アナウンサーじゃないんです」って言っていたのが、今は「アナウンサーさんですか?」と聞かれて、「そうです!」と言えるようになったんです(笑)。今までは「練習です」とかウソをついて言っていましたけど、それって実は練習ではなくて、結局は自己満足じゃないですか。だけど、今は本当の練習になりましたから。今はアナウンサーになれて練習にもなったんですけど、昔はアナウンサーでもなく、練習でもない。ただ、実況のまね事をしたい、たぶん実況をしている自分に酔っていたのだと思います。

梅田いやいや、でもその熱は完全に周りの人たちに伝わっていたと思いますよ。

井関だから相当うざかったと思いますよ。渡辺和昭さん(元ラジオNIKKEIアナウンサー)とかに「お前、常にうるさい」と言われて、「こんなところ来なくていいから、勉強しろ」ってずっと言われていました(笑)。

梅田「お前、医大に入ったんだろう」って言われたりもしてしまいましたか。

井関僕のことを「あるある」って名付けたのは渡辺和昭アナウンサーなんですよ。あるある探検隊(が持ちネタのお笑いコンビ「レギュラー」)の両方に似ているって。最初は(松本康太さんに似ているので)松本君っていわれていたのが、気絶している方(西川晃啓さん)にも似ているんじゃないかという話になって、両方に似ているということで「あるある」に定着しちゃったんです。

国家試験に合格して晴れて医者に 断腸の思いでバイトに別れ

梅田SNSなどのユーザーネームも「あるある」になってるんですよね。「あるある君って、あのお医者さんのアナウンサーの人」って世の中に定着してきて、井関君よりもあるある君みたいな感じで。それで大学生活の方は順調だったのでしょうか。

井関それが、6年までは順調にこれてしまったんですよ。試験で落ちて再試験になっちゃったり、ぎりぎりで進級したことが何回もあったんですけど、勉強を教えてくれたりレポートを手伝ってくれる人とかがいて、なんだかんだ進級してこられたんです。本当に友人に恵まれていたと心底思います。そこで僕が一つ気をつけていたところは、やっぱり興味が競馬で、部活とかもやっていないので、そうなると大学で周りと疎遠になってしまうじゃないですか。だからそうならないように出来るだけ、いわゆる学年の委員長だったり、飲み会がある時は率先して幹事をかって出たりだとかして、先生のところに試験情報をもらいに行ったりとか、そういう何か学年のためにできることはないか、を考えていました。だけど、やっぱり最後の6年でしたね。総合力が問われる、国家試験を受かる状態じゃないと合格させられないよ、という卒業判定試験で落ちてしまって、それで“プラスアルファの時間”をつくってしまったんですよ。

梅田だけどその分、アルバイト自体は長くできたということですよね。やめることは考えないで。

井関そうなんですよ。そのあたりの事情もその当時、技術バイトのシフトを決められていたラジオNIKKEIの小林雅巳アナウンサーに逐一報告していたから、「医者なんてやめちゃって、うちに入る?技術の職員になったら?」と言われることもあって、それに心がぐらついた時もあったんですけど、そこでまた“母の涙”があるんですよ。ちなみにその頃に競馬場の実況の放送席でバイトをしていることがバレるんですけど、バレる理由が父なんですよ。

梅田エッ?そうなんですか?

井関僕が勉強好きじゃないはずなのに、勉強に行く、学会に行くという時に、あまりにもうれしそうに家を出て行くから、怪しいってバレてきちゃったんですよね。「こいつ絶対に勉強会とか学会には行っていない。たぶん競馬の何かをしているのだろう」と、若干バレ始めていて、うちの父は大手警備会社に勤めているわけですよ。それでいわゆるGPSみたいなものが僕のカバンに入れられてしまっていたんです。

梅田本当ですか?それも初めて聞くすごい話です。

井関土日に学会だ、勉強会だと出て行って、いざGPSを開いてみたら東京競馬場にいるわけです。それでバレてしまって、実は放送席でバイトをしているんだと説明しましたが、それで母親は悟ったんでしょうね。このままでは本当にそっち方面に行ってしまう…と。埼玉医大は当時、2年連続で留年すると退学になってしまうんですよ。だから6年で留年になってしまって次の年も留年した場合はせっかくここまで来たのに「さようなら」となってしまうんです。

梅田厳しいですね。

井関そうなったら何もない「ただの人」というわけですよ。その段階でまた母の涙があって…。

梅田またお母さんを泣かせてしまったんですか。

井関よく覚えているんですけど、「とにかくごめん。あなたをここまでさせたのは私のせい。私のエゴかもしれない。申し訳ない。だからお願い、医者になったら後で何をやってもいいし、好きなことやっていいから、医者にだけはなってくれ」と大粒の涙で懇願されてしまって…。

梅田でも「医者になったら何やってもいい」と言ってくれたのは、逆に救われた面もあったのではないですか。

井関そうですね。救われましたし、それで本当にちゃんと医者にならなくちゃな、と思って、次の年に何とか卒業ができました。ですが、東日本大震災が起きた2011年の医師国家試験に僕は落ちてしまいました。次の年は合格できたんですが、また1年のブランクをつくっちゃったんですよね。

梅田さらにまた1年、バイトを長くできることになったわけですか。

井関「やった~」と思って(笑)。その次の年は、ついに国家試験に合格して医者になれたのですけど、その合格発表は渡辺和昭アナウンサーと一緒に見に行っているんですよ。

梅田それまたなんで渡辺和昭さんも一緒に行くことになったんですか?もう息子のような気持ちというか、応援に来てくれた感じだったのでしょうか。

井関どういう気持ちで渡辺さんも来てくれたのかは分からないですし、僕もどうして渡辺さんを誘ったのか分からないのですけれど、1人で行くのが怖かったのもあるかもしれませんね。それで国家試験に受かっていて、今まではなんだかんだバイトを続けてこられたんですけど、医者は2年間の研修医制度というものがあって、研修医の2年間はどんなことがあっても呼ばれたり、救急外来で当直などがありますので、とうとう断腸の思いで放送席の技術のバイトを引退することになりました。

梅田結局、放送席のバイトは8年間くらいやっていたことになるのでしょうか。

井関そうですね。僕の最後のアルバイトの時がヴィクトワールピサがドバイワールドCを勝つ直前の中山記念なんです。そういえば当時はグリーンチャンネルも、たまにやっている無料スクランブル放送、海外中継などしか見られなかったですよね。だから僕、実はその頃に梅田陽子さんが出ていたことは知らないんです。

梅田なるほど。ご両親の目もあって、グリーンチャンネルも堂々と見られなかったんですね。お医者さんになってやっと契約を許してもらった感じですか。

井関そうです。だからそれまでは目黒(貴子)さんだったり、渡辺和昭さんだったり、長岡一也さんが出ていた「中央競馬ワイド中継」が主だったんです。

いざ研修医となっても実況熱は冷めやらず

梅田ここまでお話をうかがっていても、なかなかすごい物語ばかりです。お医者さんになられてからも、相変わらず競馬場には通って、一般席での実況の練習はやり続けていたのでしょうか?それとも研修医の2年間は競馬とは離れていたのですか?

井関いや、まったく離れていないです。この日は絶対に休みだと分かっている日は、むしろ完全なオフにできるんですよ。普通のお医者さんというか初期研修医は、休みの日はちゃんと休んで、まとめて寝たりだとか、彼女とデートしたりとかするわけですよ。だけど僕はそこで競馬場に実況しに行っていました。そんなことをやっている研修医に彼女はできないですし(笑)。

梅田逆にオフの日に集中して、もうピンポイントで「今日はここでしゃべるぞ!」とかそんな感じだったんですか。

井関そうです。それでその頃くらいから恥ずかしさというのはもうなくなっていました。たぶん、恥じらいよりも、「競馬場で実況できている。うれしい!」という方が勝っちゃっていたし、レースの思い出作りということでも実況をしていましたから、必ずヘッドセットと双眼鏡はカバンに入れてありました。

梅田それまたすごいですね。ヘッドセットを持っているなんて“ごっこ”どころか、本格的すぎて周りがみんな引くか、面白がるかのどちらかじゃないですか。本当にその熱がすごいです。

井関ますます熱を帯びましたね。そういう意味では。

(構成:スポーツ報知 坂本達洋)

梅田 陽子
セントフォース所属。学習院女子大在学中より、日本テレビ「きょうの出来事」お天気キャスターとしてデビュー。2006年よりグリーンチャンネルキャスターとして、中央、地方競馬に携わっている。情報、スポーツ番組MC・リポーター、イベントMCとして活動中。馬とお酒と音楽(ピアノとチェンバロとパイプオルガンの演奏をします)が好き。

吉田 俊介
1974年北海道出身。(有)サンデーレーシングの代表で、ノーザンファームの副代表。中山馬主協会理事(広報インタビュー担当)。

※この記事は 2025年7月7日 に公開されました。

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