01. 馬場馬術の組み上げていく楽しさを知ることができた
幼い頃から馬とともに歩み、17歳の時に人生が変わった
梅田よろしくお願いいたします。まず、原田さんが馬と最初にふれあったきっかけを教えてください。
原田私は山形県の出身で、スキー場で有名な蔵王連峰の麓でうちの父が乗馬クラブを経営していました。なので「馬に初めて乗った」という記憶がないくらい、普通に家に馬がいるという環境で育っていました。
梅田それでは歩く前から馬に乗っていたのかもしれませんね!
原田そうです。実際に自転車よりも早く馬に乗っていたと思います(笑)。それで自分が17歳の時でしょうか。大阪に「杉谷乗馬クラブ」という有名な乗馬クラブがあるんですけど、杉谷乗馬クラブという有名な乗馬クラブの代表の杉谷昌保さんに「お前、俺の弟子になれ」と言われたのです。
梅田それはどういうきっかけからだったのですか?
原田地元の山形で国体があったりしたなかで、開催県の時に私が乗っているのを見て、何かピンときたのでしょうね。それで、「来い」ということになったのですが、とにかく杉谷さんもすごく有名な方でしたからね。乗馬の雑誌で見るような人にそんなこと言われたらその気になっちゃって、高校をやめて、17歳の時にカバン1つ持って大阪に行きました。ポケットに10万円くらい入れていたのかな。それで杉谷さんのところに行って、そこから弟子に入ったような形で働かさせていただきました。
梅田そんなすごい方から目をかけてもらったなんて、ご両親も喜ばれたのではないですか。
原田それが猛反対されたんです。実家も乗馬クラブをやっているのに、僕自身が本当に単純な考え方で「強くなりたいから」と言って行きたいと言ってきたので、もうたぶん帰ってこないんじゃないかと思ったんでしょうね。
梅田ご両親にしたらさみしさもあるでしょうし、複雑な思いだったんでしょうね。
原田それでも何とか頼み込んでOKをもらって、行かせてもらいました。
ハイレベルな環境で初めて馬術を学び、研鑽を積んだ日々
梅田それでは師匠に見初められて、「うちにおいで」ということで人生が変わった感じですね。
原田そうなんです。ただ、その頃は実際に「馬術」というもの自体を習ったことがなくて、“感覚“で乗っていただけだったんですよ。
梅田感覚だけで乗れるってすごいことですよね!
原田初めて国体に出場した時は2位と4位でしたかね。それが16歳の時で、杉谷さんに声をかけられて、そして17歳の時に杉谷乗馬クラブへ行ったわけです。
梅田やはりセンスというか、子供の時から培ってきたものがあって、体系的に習っていなくてもセンスを持っていらっしゃったんですね。
原田いざ門を叩いて行ったんですけど、馬術というものに触れて、改めて頭で考えながらやってみるとすごく難しかったです。何にもできなかったというのが実際で、そこからいろんな勉強をしていって、自分のなかに取り入れていきました。
梅田それまで感覚でやっていたものと、先生から学んだものとは違いましたか。
原田全然、違いましたね。当時は障害馬術をやっていたので、「踏み切り」をあわせなくてはいけないんですけど、「踏み切り」をあわせるという行為自体が、僕のなかでよく分かっていなくて、勝手に馬が飛ぶものだと思っていました。自分で「踏み切り」をあわせて、ストライドをあわせて計算してなんてことはしたことなかったので、コースを回るのはうまく回れるんですけど、このラインを何歩で飛べとか言われたら、出来なかったんですね。
梅田緻密に「ここは何歩で」とか決まっているものなんですよね。
原田そうなんですよ。だから自分の目測で感覚的に走っていくと障害は普通に飛べたんですけど、こういうふうにしなさい、という細かいアレンジが全く出来なくて、それはちょっと苦労しましたね。最初は。
梅田そこで結構悩んだりされたのでしょうか。
原田そうですね。だけど、当時はトップライダーの方々がたくさんいらっしゃったので、本当に毎日が刺激的な日々でした。自分の目から感覚を得られるし、実際に乗っての感覚も得られるし、お仕事を習いながら13年間くらい修業をさせてもらって、本当にかわいがってもらいました。それで2005年に岡山国体が開催されるということで、そこにあわせて数年前から強化が始まるという情報をいただいて、岡山に選手がいないから来てくれないかと言われたんです。それまで、ものすごくかわいがっていただいていたので苦しい決断だったのですが、30歳の時に岡山へ移ることにしました。「いい馬に乗れるんだったら行こう」という単純な考えでした。
梅田今後への手応えなどをつかんでいらっしゃったから、決断できたのでしょうか。
原田手応えというか、ただいい馬に乗りたかったというだけですね。馬場馬術の競技のできる馬に乗ってみたかったというのがまずあって、実際に飛び込んで行きました。
梅田その時のご家族の反応はどうだったんですか。
原田僕は岡山に来てから結婚したので、そのへんは自由でしたね。とにかくトップライダーになっていきたい、という思いしかなかったです。
大阪から岡山に移り、「馬場馬術」の面白さに目覚める
梅田始めは障害馬術から入って、オリンピックに出場されたのは馬場馬術ということですが、馬場馬術に転向されると大きく違ってくるわけですよね。
原田飛ぶのと演技をするのは違いますね。岡山に来たときにドレッサージュ(馬場馬術)をするチャンスがきたんですが、そもそもどうして馬場馬術の道に入ったかというと、この前のパリ五輪で“初老ジャパン”が銅メダルを取ったと思いますが、その総合馬術を先にやったんですよ。障害やクロスカントリーなどのなかのひとつに、ドレッサージュ(馬場馬術)がありますが、当時の日本の馬場馬術の技術(レベル)は世界から見ると遅れていたんです。クロスカントリーとジャンプは、そこそこいけるだろうな、という見方をされていましたが、ドレッサージュ(馬場馬術)が日本人はうまくなかったのです。
それで話は戻って、岡山国体の地元のチームは選手がいなくて、馬場馬術をやる人もいなかったんですよ。馬場馬術の強化として馬は購入していたんですが、誰も乗る人がいなかったのです。それで最初は譲り合うみたいな形になっていて、「しようがない俺がやるか」ということになってやらされただけです。でも、それは将来的によかったと思います。最初は総合馬術でオリンピックに行きたかったんですけど、国体で馬場馬術の馬がいるし、自分も総合馬術で出るので、(指導してくれる)トレーナーは自分で決めさせてほしいと言って岡山の人にお願いしたんです。そのトレーナーが中俣修(なかまた・おさむ)さんといって、中央競馬会の方で伝説のライダーですよ。僕が子供の頃から雑誌で見るような選手で、その方がたまたま兵庫県、三木ホースランドパークの馬事部長でいらっしゃったので、直接会いに行ってお願いしたんです。
実はこういう理由で、僕は将来馬で食べていこうと決めているので教えてほしいです、と。なかなか弟子をとらない人だったんですけど、「おお、いいよ」なんて返事をくれた後、それからしばらく僕が乗っているのを見てくれていたんでしょうね、何かのタイミングでスッと来て、「ところでお前はいつ馬を持ってくるんだ」と言われて、「本当に見てもらえますか?」と言ったら、「いいよ」と言うので、その次の日にすぐに馬を持ってきて、そこからドレッサージュ(馬場馬術)にのめりこんでいきましたね。
梅田始めから馬場馬術というわけではなく、いろいろと経験していくなかで選ばれたという形だったのですね。
原田馬場馬術の何が面白いかと言うと、子供の頃から障害をやってみたり、総合をやってみたりして、いろんな感覚はあったんですよ。そして馬場馬術を始めた時に、理論的に馬を調教していくというポイントが、自分のなかで腑に落ちたところがありました。ドレッサージュ(馬場馬術)の理論をずっとやっていくと、今まで培ってきた感覚が全部組み上がっていったというのが事実としてありました。なんとなく出来ていたことが、「あ! こうやってできていたんだ」と。答えは分かっていたけど、数式が分かっていなかった、みたいなもので、馬場馬術をやることによって見えたんですよね。
梅田なるほど。具体的になかなか説明しにくいものだとは思いますけど、点と点が線になった瞬間があったということでしょうか。
原田そうなんですよ。それでのめりこむようになって、性格的にも僕に合ったのでしょうね。
梅田馬術の競技によって、性格的に向き、不向きもあるものなのでしょうか?
原田あると思いますよ。ドレッサージュ(馬場馬術)の場合、他の競技もそうですが、特に緻密に積み上げて計算して…、というのができないといけないので。時間がかかるものですが、僕はかけるのが好きでというところがあるので、悩んだだけ良い答えが出てくるというのが自分の性格に合いましたね。
梅田そうなんですね。馬場馬術をやられてからは、いろいろ全日本馬場馬術選手権で優勝されたり、輝かしい成績をおさめられていますね。
原田それから自分のなかでワーッとはまっていくところがあったのでしょうね。障害を飛んでも、だからこうやって飛べるのか、という感覚や答えが以前よりも見えてきたり。今でもたまに遊びで障害を飛んだりするんですが、そうなってくると楽しいですよね。
梅田ご自身が変わっていったのはもちろん、周りの見る目とかも変わっていきましたか?
原田変わりましたね。思うように成績を挙げていけましたし、実際にドレッサージュ(馬場馬術)に転向して、20年以上経ちましたよね。その間、そこそこの成績でずっとこられているのは、やっぱり組み上げていく楽しさを知ることができたというのがポイントかなと思いますね。
馬場馬術で数々の輝かしい実績、そしてオリンピック出場へ
梅田原田さんの記録は、いろいろすごいものがありますよね。2004年の埼玉国体で成年男子の馬場馬術で優勝して、以後7回連続優勝されたとか、あまり聞いたことがないです。
原田6、7回くらい優勝していますけど、今は強い選手がいっぱいいますからね。
梅田そうやって実力や成績を積み上げていかれたことが、オリンピックにつながっていったわけですね。そろそろオリンピックが見えてきたな、というのは自分でも分かってくるものなのでしょうか。プレッシャーなどもありましたか?
原田あるにはありますけど、僕は大きい舞台の方がうまくいくタイプなんですよ。多少の緊張感がないとしょうもないミスしたりするんですけど、反対に大きい舞台になるとしないんです。
梅田それはすごいですね。それって何か訓練とか方法があるのでしょうか?
原田その競技に向けたシチュエーションをちゃんとつくってやるんです。絶対に勝たなきゃいけない国体なんかの時でも、出番の発表が1か月以上前にされるんですが、9時スタートの3番だったら、1人につき8分の計算でいくので、9時24分にスタートするイメージで毎日、逆算して乗りましたね。そういう練習をしますよね。雨が降ろうが土砂降りだろうが、9時24分は僕のスタート時間だと決めて訓練していって。そういうのが好きなんです(笑)。
梅田本当に緻密ですね。
原田そうそう、緻密です。そうすることによって、自分のなかでベストの状態をつくれるというのがあって、とりあえずそのシチュエーション、シナリオ通りにやっていくスタイルが好きですよね。
梅田ちゃんとアクションを起こして、メンタルも体も全てをもっていくわけですね。私はプレッシャーに弱いからなぁ…。全然、レベルは違う話だと思いますけど(苦笑)。でも、自分で努力されて追い込んで取り組まれていたのですね。
原田東京もパリも五輪出場を狙ったんですけど、東京は結局、(コロナ禍で)延期になったじゃないですか。あの時は順調にきていて、春のシーズンまでアメリカで3つか4つくらい大きいところを優勝したんじゃないですかね。それくらい順調にいっていたんですけど、ツアーの最中にコロナで封鎖になったり、いざ東京大会の延期が決まって、馬を置いていくわけにはいかないので、拠点としているドイツに戻そうとしたら(飛行機が)飛べなくなったり。
梅田輸送なども大変ですよね。
原田自分のビザすらも取れなくなって、にっちもさっちもいかない状態になって東京五輪はそういうふうに終わってしまいました。それで次のパリ五輪の時に照準をあわせていったんですが、まだ自分の馬がもうひとつ経験がほしいかなという感じの馬で、アタックしたら行けそうだけど、やめようと思いました。次のロスまで少し待とうと。
2028年ロサンゼルス五輪を目指して、来年は世界選手権やアジア大会に挑む
梅田今は次のロサンゼルス五輪に向けて、原田さんは準備していらっしゃるわけですよね。
原田もちろん、やっていますよ。
梅田日本を拠点にされているのか、それとも海外で調整をされているのですか。
原田海外です。今も。ほとんどに日本には帰っていませんね。だいたい1月から3月まではアメリカにいて、3月より後はドイツになるんですけど、もうそのスタイルを7年くらい続けていますね。
梅田本当に馬とともに生活していらっしゃるわけですね。
原田日本には、ちょこちょこタイミングをみて帰っています。仕事を放っておくわけにはいきませんので。
梅田今後、オリンピックに向けて原田さんの活躍に注目していきたいです。
原田まずは来年にアジア大会と世界選手権があるので、そこがひとつのポイントになりますね。来年の9月がアジア大会で、その前に7月にドイツで世界選手権があります。
梅田アジア大会はどこで開催されるのですか?
原田アジア大会は今回、世田谷の馬事公苑なんですよ。本来は名古屋がメイン会場なんですけど、馬術競技場がないので、馬術だけは世田谷で行われることが決まっています。今回はみんな、かなり気合を入れて金メダルを取りにいくんじゃないですか。
梅田一般の方も見に行けるものなのでしょうか。
原田もちろん見に行けますよ。馬事公苑もオリンピック本番の時は無観客だったので、お客さんを入れてやりたいんじゃないでしょうか。
梅田見に行きたい方は絶対に多いと思いますよ。
(構成:スポーツ報知 坂本達洋)

梅田 陽子
セントフォース所属。学習院女子大在学中より、日本テレビ「きょうの出来事」お天気キャスターとしてデビュー。2006年よりグリーンチャンネルキャスターとして、中央、地方競馬に携わっている。情報、スポーツ番組MC・リポーター、イベントMCとして活動中。馬とお酒と音楽(ピアノとチェンバロとパイプオルガンの演奏をします)が好き。

吉田 俊介
1974年北海道出身。(有)サンデーレーシングの代表で、ノーザンファームの副代表。中山馬主協会理事(広報インタビュー担当)。