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【第10回】海を跨いだ挑戦

ゲスト シンボリ牧場・和田容子さん 【第10回】海を跨いだ挑戦

皇帝シンボリルドルフが無敗のまま三冠を制すると、シンボリ牧場総帥の和田共弘さんの視線は遠く海の向こうに注がれることになります。 スピードシンボリで挑んだ海外遠征から20年近くがたっていました。

『海外へ初めて連れて行ってくれたのはスピードシンボリ。ワシントンDCインターナショナルのときでしたね』
と懐かしそうに容子さんは振り返ります。1967年のことです。

このレースはアメリカ唯一の国際招待競走として創設され、ヨーロッパ、日本はもとよりソ連などからも強豪が集結し、芝12ハロンで争われる世界選手権といった趣きがありました。単に『インターナショナル』と言えばこのレースのことでした。

レースに挑んだスピードシンボリは5着に敗れます。勝ったのは生涯75戦21勝とタフに走り抜いたフォートマーシー、2着は米二冠馬ダマスカスでいずれ劣らぬ一流馬です。

それ以前にも日本馬はタカマガハラ、リュウフォーレルが挑戦して掲示板にも載れなかったのですから5着は健闘でしょうか。

しかしそれで簡単に引き下がる共弘さんではありません。1年をおいた1969年、今度はヨーロッパへと矛先を向けます。それも1戦だけの招待レースなどではなく、じっくり腰を据えて各地を転戦しようというプランでした。

『向こうは強敵ぞろいですからね。それと向こうの馬場への適性というのが、とても大事なんです。普通に日本流の調教をやっていては太刀打ちできません。
でもね、シャンティの調教場なんかでトレーニングを積んでいくと、馬の走りが変わってくるんですよ。そういうことも含めて長期滞在しないとなかなかね』


現地に溶け込んで鍛えられながら、スピードシンボリは最初のレースに向かいます。
キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスです。

アスコット競馬場で行われる伝統のビッグレース、スピードシンボリはここでも5着と健闘してみせます。この記録は2006年にハーツクライが3着するまで、40年近くも日本馬最先着として輝き続けました。

次いで共弘さん、野平祐二騎手らのチームシンボリはドーヴァー海峡を渡ってフランスへと転戦を重ねます。
しかしドーヴィル大賞、凱旋門賞ともに着外という厳しい現実を突きつけられてしまいます。

現在のように調教施設も充実していなかった時代のことです。調教技術も手探りの状態で試行錯誤の連続でした。

その中でチームシンボリは戦い、そして敗れました。しかし、それは結果だけ見て絶望するようなことではなく、始まりの、その初めの第一歩にすぎなかったのです。

※この記事は2011年5月12日に公開されました。


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