馬事叢論 活動報告、提言など

第6回「ドバイに刻まれる日本馬の挑戦」

砂漠の馬王国ドバイを訪れて 第6回「ドバイに刻まれる日本馬の挑戦」

今回は、ドバイワールドカップの歴史と日本馬の活躍についてのお話です。
このドバイの地には、世界の名馬の走りが刻まれています

第1回ドバイワールドカップが行われたのは1996年。シェイク・モハメド殿下(当時は皇太子)は米国のブリーダーズカップに勝るとも劣らないレースの開催を発案したことで誕生しました。

世界最高の賞金額を誇るこの競走は、第1回の総賞金400万USドル(優勝賞金240万ドル)から、第4回の1999年には500万ドル(300万ドル)、翌2000年には600万ドル(360万ドル)、現在は1000万ドル(600万ドル)まで引き上げられました。

ダートコース2000mで行われた第1回の優勝馬は、世界的名馬でアメリカのヒーロー、シガー。前年にブリーダーズカップを制し年度代表馬にも選出され、勢いそのままにドバイワールドカップを制しました。過去17回の歴代優勝馬は、ダート王国の米国が8頭、地元のUAEが6頭、イギリス、フランス、日本がそれぞれ1頭と続いています。歴代優勝馬は、その後日本に種牡馬として多数輸入されています。

日本馬の参戦は、第1回の1996年のライブリマウントが初めてでした。
この頃は中央と地方の交流重賞が盛んに行われるようになった時で、ライブリマウントは中央のダート重賞と地方の交流GⅠを圧倒的な強さで勝ち進んでいました。

主戦の石橋守騎手を背に挑んだドバイワールドカップは、全く見せ場なく完敗の6着。世界とのレベルの差を痛感したレースとなりました。

それから5年後の2001年に挑戦したトゥザヴィクトリーは、武豊騎手を背に最後の直線半ばまで逃げ粘り、最後は優勝したキャプテンスティーヴに差されましたが、堂々の2着という結果を残しました。

また、同日にドバイシーマクラシック(当時はGII)をステイゴールドが制し、日本馬が世界一に手が届くレベルにあることを認識した年でもありました。

今でこそ当たり前のように世界で活躍していますが、当時は衝撃的な出来事でした。

ドバイワールドカップ翌日の紙面。ヴィクトワールピサの偉業は、国内でも大きく報じられました(紙面提供:スポーツ報知)

それから毎年のように世界の頂点に挑みましたが、2006年のドバイシーマクラシックにハーツクライが、2007年のドバイデューティーフリーにアドマイヤムーンが優勝しましたが、メインのドバイワールドカップにおいては世界の強豪に全く歯が立たない時代が続きました。

そして時は2011年。

舞台はメイダン競馬場に移り、ダートコースからオールウェザーコースに変わりました。

この年、日本は未曾有の大震災に見舞われ、国中が悲しみに暮れているなか、前年の皐月賞と有馬記念を制し年度代表馬となったヴィクトワールピサ、ダート王のトランセンド、史上最強牝馬と謳われたブエナビスタの史上最強ともいえる3頭の布陣でドバイワールドカップに挑みました。

スタート直後は、いつものように逃げるトランセンド、ヴィクトワールピサとブエナビスタの2頭は最後方に待機。
トランセンドが絶妙なペースで逃げるなか、向う正面でヴィクトワールピサは徐々に順位を上げ2番手に進出、後方でじっと待機するブエナビスタ、ヴィクトワールピサが逃げるトランセンドに並びかけ最後の直線へ。

トランセンドとヴィクトワールピサの壮絶なたたき合い、それを猛然と追いかける各馬、しかしその差は詰まることなく、たたき合いをわずかに制したヴィクトワールピサが初の栄冠に輝きました。

ヴィクトワールピサの勝因は、オールウェザーコースへの適性と自在性のある脚質であったことが挙げられますが、何より日本のトップホースの実力が約20年の時を経て世界に引けを取らないレベルに達していることは紛れもない事実です。

次回は、いよいよ視察のメインイベント「ドバイワールドカップデー」のお話です。


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